翻訳と辞書 |
ベア川の虐殺[べあかわのぎゃくさつ]
ベア川の虐殺(ベアかわのぎゃくさつ、英:Bear River massacre、またはベア川の戦い、英:Battle of Bear River、またはボア・オゴイの虐殺、英:Massacre at Boa Ogoi)は、1863年1月29日に、当時のワシントン準州南東部ベア川とビーバー・クリーク(現在のバトル・クリーク)の合流点で、アメリカ陸軍が、女・子供を含むショーショーニー族インディアンを無差別虐殺した軍事行動である。 この戦場跡は現在、アイダホ州フランクリン郡プレストン市近くに位置する。アメリカ陸軍分遣隊はショーショーニー族に対抗するベア川遠征の一部としてパトリック・エドワード・コナー大佐に率いられた。 == 背景と根本原因 ==
この当時「スーフベオゴイ」(ショーショーニー語でヤナギ渓谷)と呼ばれていたキャッシュ・バレーは、伝統的に北西部ショーショーニー族の狩猟場であり、特に穀物や草の種の集積場であると同時に、ウッドチャックやジリスのような小動物とシカ、エルク、バッファローのような大型動物両方の狩猟場であり、さらには川マスも獲れる場所だった〔Sagwitch, p. 3-4〕。この山岳渓谷は白人の毛皮交易業者や罠猟師も惹き付け、ジム・ブリッジャーやジェデッドアイア・スミスのような罠猟師や探検家がこの地域を訪れていた。「キャッシュ・バレー」という名前は、これら罠猟師が周辺の山脈における狩猟行の中心準備地域としてこの渓谷にその毛皮と物資の倉庫(すなわち毛皮の「キャッシュ」貯蔵所)を置いていた事から生まれたものである〔The History of a Valley, p. 23-26〕。 罠猟師達はこの地域に大変感銘を受けたので、ブリガム・ヤングにモルモン開拓者の当初定着の場所として検討するよう推薦したくらいだった。ヤングはここではなく、ソルトレイク・バレーを選定したが、それでもモルモン入植者はキャッシュ・バレーにも移動することになった〔Sagwitch, p. 23〕。1847年7月31日には既に、約20名のショーショーニー族代表団がモルモン入植者と会見してユタ北部の土地所有権主張について検討した〔Sagwitch, p. 14〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベア川の虐殺」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|