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ベトナム国 : ウィキペディア日本語版
ベトナム国[べとなむこく]

ベトナム国(ベトナムこく、)は、1949年から1955年までベトナムに存在した国家フランス傀儡国家であり、阮朝の最後の皇帝であったバオ・ダイ(保大帝)を元首とし、ベトナムの正統な国家としてベトナム民主共和国に対抗した。そのため、バオ・ダイ政権と呼称されることもあるが、最終的にはゴ・ディン・ジエム()がベトナム国を掌握し、ベトナム共和国の成立とともに消滅した。
国家元首の称号は「国長(ベトナム語: Quốc trưởng/國長)」であった。
== 歴史 ==
第二次世界大戦以前より、インドシナにおける反仏独立運動は、様々な形で展開されていたがコミンテルンの指示をうけていたインドシナ共産党の指導下で八月革命が勃発し、各地で共産勢力による権力争奪闘争が引き起こされていた。しかし連合国によるインドシナ処理はすでに決まっていて北から中華民国軍、南からイギリス軍が経由してフランスに再び引き継ぐ取り決めになっていた。フランスはベトミン政権を「フランス連合」の一員として認める合意に達していたが日増しに双方の関係は悪化し、フランスは、独立を目指すベトナム民主共和国との全面的な戦争インドシナ戦争)に直面し、それが長期化する状況に置かれていた。そのため、事態改善のためにベトナム民主共和国のホー・チ・ミン(胡志明)の代わりとなるベトナム人の交渉相手を求め、最終的に香港に亡命していた阮朝最後の皇帝バオ・ダイを、ベトナム国の元首として擁立することとした。このバオ・ダイ首班のベトナム国建国の動きは、ベトナム労働党主導のベトナム民主共和国に反感を持つ反共知識人や反共民族主義者、阮朝時代の官人や南部ベトナムの諸宗教団体などから支持を得ることとなり、1948年にベトナムの諸勢力とフランスが折衝した結果、同年5月27日に暫定政府としてベトナム臨時中央政府が成立し、さらには、フランス議会とコーチシナ共和国議会が、自治を前提としてコーチシナ共和国のベトナム臨時中央政府への編入を決議した。その後、バオ・ダイは1949年3月にフランス・ベトナム協定を締結し、同年6月14日に正式なベトナム国が成立し、ベトナムは、ベトナム国によって全土が形式的に統一されることとなった(ただしベトナム国は南部しか実効支配していない)。しかしそれは、ベトナムがベトナム民主共和国とベトナム国という二つの正統な国家に分裂されることを意味していた。
その後、1954年ジュネーヴ協定によってベトナムが南北に分割されてからは北緯17度線の南側を統治する国家となったが、同時にフランスというバオ・ダイの後ろ盾もベトナムから撤収したため、1955年にバオ・ダイは元首の座をゴ・ディン・ジエムに取って代わられ、同年のうちにベトナム国は消滅し、代わってベトナム共和国が成立した。
以降ベトナムは1975年まで分断国家の状態が続いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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