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ベネヴェントの戦い : ウィキペディア日本語版
ベネヴェントの戦い[べねう゛ぇんとのたたかい]

ベネヴェントの戦い:Battle of Benevento)は、南イタリアベネヴェント近郊で1266年2月26日に行われた戦いである。実質的にシチリア王国を支配していたホーエンシュタウフェン家マンフレーディローマ教皇クレメンス4世の支持を受けたカペー家シャルル・ダンジューが争い、マンフレーディの敗北によってホーエンシュタウフェン家によるシチリア支配は終わりを告げることになった。
== 背景 ==
教皇権は、ホーエンシュタウフェン家の一族による南イタリア支配との、長い対立の中にあった。当時のシチリア王国を統治していたのは、アンチキリストとの疑いの絶えなかったフリードリヒ2世の庶子であるマンフレーディであった。彼は当初王国の正当な継承者であるはずのフリードリヒ2世の孫コンラーディンが成年に至るまでの、摂政として限定的な代理支配を任されたに過ぎなかった〔教皇インノケンティウス4世とマンフレーディは条約を交わし、
#コンラーディンのシチリア王位についての権利は成年に達したときに考慮されるべきこと
#それまでの間シチリア王国は教皇庁によって所有されるべきこと
を約束していた。〕が、精力的な活動によって実効支配を拡大し、教皇の反対を抑えて1257年までには王国全土をほぼ支配下においた。このころバイエルンにいたコンラーディンが死去したという噂が流れ、マンフレーディはそれを巧みに利用して1258年8月10日パレルモ大聖堂でシチリア王として戴冠した。
教皇権は不利な情勢の中で、シチリア王国をホーエンシュタウフェン家の支配から奪うことを決意し、取って代わるべき王として、何人かの候補〔教皇庁はイングランドヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードや王子エドマンド(後のランカスター伯爵)を候補としており、実際に交渉している。〕の中からフランス聖ルイの弟シャルル・ダンジューに白羽の矢を立てた。教皇ウルバヌス4世1263年6月にシャルル・ダンジューと協定を結び、7月末にはこの野心的なフランス人は教皇からシチリア王と正式に認められていた。この協定は一方的に教皇の側に有利な内容であった〔シャルル・ダンジューは
#かつてのノルマン人のシチリア王が持っていた、支配地における教皇代理としての地位を放棄し、
#聖職者の任命権と宗教裁判の権利を保持できない。
#聖職者に課税できず、空位の司教区での徴税権も認められない。
#神聖ローマ皇帝の位を要求できない。
#教皇庁に対し、10000オンスの年貢を納める。
#教皇の要求があれば、騎士3000名と船舶を供出する。
などの極めて不利な内容を認めた。しかし1264年にマンフレーディが中部イタリアで支配を拡大し、教皇権が危機に陥ると、早くも協定の見直しを要求した。
〕が、シャルル・ダンジューは受諾した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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