翻訳と辞書
Words near each other
・ ベルギーの国会
・ ベルギーの国旗
・ ベルギーの国歌
・ ベルギーの国王
・ ベルギーの国章
・ ベルギーの国鉄
・ ベルギーの在外公館の一覧
・ ベルギーの地方行政区分
・ ベルギーの地方行政区画
・ ベルギーの地理
ベルギーの戦い
・ ベルギーの政党
・ ベルギーの料理
・ ベルギーの旗
・ ベルギーの旗 (エルガー)
・ ベルギーの映画
・ ベルギーの海軍
・ ベルギーの空港の一覧
・ ベルギーの空軍
・ ベルギーの軍事


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ベルギーの戦い : ウィキペディア日本語版
ベルギーの戦い[べるぎーのたたかい]

ベルギーの戦い(ベルギーのたたかい、)は、ナチス・ドイツのフランス侵攻における戦いのひとつである。
1940年5月10日ドイツルクセンブルクオランダベルギーを抜けてフランスへ進撃することを目的とした作戦、「黄作戦(Fall Gelb)」を発動した。連合軍はそれが主力であると考え、ベルギーでドイツ軍を食い止めるため、最良の師団をベルギーに向かわせたが、ドイツ軍が作戦の第二段階を発動、アルデンヌの森を突破してイギリス海峡へ向かって進撃を重ね、5日後には海岸へ到達、連合軍は包囲されることとなった。ドイツ軍は徐々に海岸方面へ進撃、包囲網を縮め始めた。ベルギー軍は戦いの終了した1940年5月28日、降伏した。ベルギーの戦いにおいては第二次世界大戦初の大規模戦車戦、アニューの戦いが行われている〔Healy 2007, p. 36.〕。このアニューの戦いは北アフリカの戦い東部戦線が行われるまでは世界最大の戦車戦であった。さらに、降下部隊を用いた最初の戦略的降下作戦も行われた。ドイツの公式な発表では18日間の激しい戦いにおいて、ベルギー軍は手強い敵であり、その兵士たちの「驚異的勇敢さ」について語り草になっているとしている〔Keegan 2005, pp. 95–96.〕。
==ベルギーの緊張==
ドイツ軍の攻撃により、ベルギーの戦略には政治、軍事において問題が発生していた。軍事についてはフランスがマジノ線を延長することにより、ベルギー・フランス国境がドイツ軍の防波堤になる可能性が生じていたことであり、これらはドイツ軍がオランダへ進撃することにより、ベルギーをドイツ軍の攻撃に直面させることとなり、この戦略ではフランス軍が素早くベルギー国内に進駐してドイツ軍の攻撃を防ぐようにしなければならなかった〔Bond 1990, p. 8.〕。
政治的な部分において、ベルギーはフランスを信用していなかった。フランスのフィリップ・ペタン元帥は1930年10月、1933年1月を契機として、ベルギーを利用してドイツ、ルール地方の占領を提案した。ベルギーはそれを契機として戦争に巻き込まれることを恐れ、それを避けようとした。さらに1935年5月、フランス、ソビエト連邦の間で結ばれた協定の結果、ベルギー人たちは戦争に巻き込まれることを恐れていた。そのため、フランス、ベルギー間の合意により、ドイツ軍が攻撃を行う場合、ベルギーは軍を動員することを規定していたが、ポーランドへドイツ軍が侵入した場合、ベルギー軍を動員するかどうかは明白ではなかった〔。
さらに、ベルギーはイギリスとの同盟を強く望んでいた。第一次世界大戦において、ドイツ軍が中立国であったベルギーへ侵入したことにより、イギリスはドイツに対し宣戦布告を行い、大戦に参加していた。ベルギーにおける港湾設備はドイツ海軍に価値のある基地を提供することとなり、そしてベルギーの港湾設備がドイツによって占領されることにより、イギリスに対しての戦略的攻撃を行うためのドイツ海軍、ドイツ空軍の基地を提供することになる恐れがあった。しかし、イギリス政府はベルギーの懸念に全く注意を払うことがなかった。そして、ドイツによるラインラント進駐は〔〔Ellis 2009, p. 8.〕、フランス・イギリス両国にドイツと戦う勇気がないとベルギーに信じさせるには十分な出来事であり、ラインラント進駐の前日、ベルギーが西側連合軍から抜ける理由となっていた。ベルギー参謀本部は必要に応じて、単独で戦うことがベルギーの利益になると硬く決心していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ベルギーの戦い」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.