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ドイツ国会議事堂放火事件(ドイツこっかいぎじどうほうかじけん、)とは、1933年2月27日の夜にドイツの国会議事堂が炎上した事件を指す。なお、「国会議事堂放火事件」と表記されることもある〔『詳説世界史B』(山川出版社。文部科学省検定済教科書。高等学校 地理歴史科用。2002年4月4日文部科学省検定済。2004年3月5日発行。2004年3月1日印刷。教科書番号 81 山川 世B005)p 309の本文には「新政府は国会議事堂放火事件を利用して, 共産党など左翼勢力を弾圧し, 全権委任法によって国会の立法権を政府に移し, さらにナチ党以外の政党や労働組合を解散させて一党独裁を実現した。」と書かれていて、「国会議事堂放火事件」の下には「1933」と書かれている。〕。 == 概要 == 1933年1月30日、ヒトラー内閣が成立した。アドルフ・ヒトラーは政権基盤を固めるために議会を解散。3月5日に総選挙を行うことを決めた。 2月27日の午後9時30分頃、議事堂のそばをとおりがかった帰宅途中の神学生がガラスの割れる音を聞いた。彼は火のついたものを持った人影を見て、警備を行っていた警官に急報した。警官は割れた窓とその奥の火を発見して呆然となったが、数分後に消防隊に通報した。消防車は10時少し前に到着したが火はすでにかなり燃え広がっていた〔トーランド、132-133p〕。 当時、議事堂の真向かいにある宿舎で寝ていたナチ党の外国報道部長エルンスト・ハンフシュテングルは家政婦の悲鳴で火事に気付き、そのころヒトラーのパーティが開かれていたヨーゼフ・ゲッベルスのアパートに電話した。ハンフシュテングルが議事堂が燃えていることを話したとき、ゲッベルスは冗談だと相手にしなかった。しかしやがて議事堂の方角が炎で赤く染まり、ヒトラーは「コミュニスト(共産主義者)の仕業だ!」と叫んで現場に急行した〔トーランド、132-133p〕。 真っ先に現場に到着した国会議長兼プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングは現場で議事堂財産の避難と捜査に当たった。次に副首相パーペンも火事を知って現場に急行した。現場に到着したパーペンにゲーリングは「これは明らかに新政府に対する共産主義者の犯行だ」と叫んだという〔児島、251p〕。間もなく到着したヒトラーも、「これは天から送られた合図ですよ、副首相閣下!」「もしもこの火事が、私の考えている通りコミュニストの仕業だとしたら、我々はこの危険な害虫どもを鉄拳で叩きつぶさねばなりません!」〔トーランド、134p〕と語った。その後、ヒトラーは緊急対策会議の開催を告げたが、パーペンは大統領への報告を優先して断った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドイツ国会議事堂放火事件」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Reichstag fire 」があります。 スポンサード リンク
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