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フラウィウス・ペトロニウス・マクシムス(Flavius Petronius Maximus〔Jones&Martindale 1992, p. 749.〕/恐らくはFlavius Anicius Petronius Maximus〔Drinkwater&Elton 2002, pp. 117-118.〕、396年頃 – 455年5月31日〔Drinkwater&Elton 2002, p. 118.〕〔.〕)は455年に即位し、2か月半在位した西ローマ皇帝である(ホノリウスから数えて5人目の皇帝)。裕福な元老院議員であり傑出した貴族であった彼は西ローマ軍のマギステル・ミリトゥム(軍務長官)であったアエティウスそして西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の暗殺に関与した。マクシムス帝はヴァンダル族による の際に殺害された。 == 生涯 == ===出自と官歴=== ペトロニウス・マクシムスは396年頃に生まれており〔、彼の確かな出自は不明だが、名門家に属していたと考えられている〔Drinkwater&Elton 2002,p.117.〕。後に皇帝となるオリブリオスとは親戚であり、祖父母は裕福な貴族で371年に執政官を務めたとアニシア・ファルトニア・プロヴァ、父はであった。父のアニキウス・プロビノスは364年にイリュリクム属州長官になり、366年にはガリアそして368年から375年にはの民政総督をおのおの務め、395年に執政官に就任していた。 マクシムスは若くから官界入りしており、知られている最初の官職は411年頃に就任した法務官であり、415年には帝国官僚の登竜門である護民官付となり、次いで416年から419年の間に帝室財務長官を務めている〔。 420年1月/2月から421年8月/9月に彼はに就任し、の修復を行い、439年以前に彼はもう一度この官職に就いている。さらに彼は421年から439年の間のいづれかに近衛軍団長官に任命され、この官職かまたは二度目の首都長官の時期の433年に執政官に選ばれた〔Jones&Martindale 1992,p.750.〕。 439年8月から441年2月までに就任し〔ギボン 1996,p.288.〕、その後、443年に二度目の執政官に選ばれた。445年にパトリキ(貴族)に叙爵され、この年までにラビカナ街道との間の カエリウスの丘に公共広場を建設した〔。この年、彼は西ローマ帝国で最も名誉ある地位にあったが、それも翌年に軍務長官のアエティウスが三度目の執政官に選ばれるまでであった〔。 ペトロニウス・マクシムスと有力者のアエティウス将軍との不和が西ローマ帝国に次々と災厄をもたらすことになる〔Cameron&Ward-Perkins&Whitby 2002,p.18.〕。しかしながら、当初はこの災厄で最も利益を得たのはペトロニウス・マクシムスであり、454年にアエティウスが、次いで翌455年3月16日に皇帝ウァレンティニアヌス3世が暗殺されたことにより、彼が帝位を手に入れることになった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ペトロニウス・マクシムス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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