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ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦 : ウィキペディア日本語版
ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦[ぺとろぱぶろふすく かむちゃつきーほういせん]

ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦(ペトロパブロフスク・カムチャツキーほういせん、Siege of Petropavlovsk)は、クリミア戦争の太平洋戦線における主要な戦いである。1854年の8月から9月にかけて、ロシア帝国の極東最大の拠点だったカムチャツカ半島ペトロパブロフスク(当時、沿海州はまだ領であり、ロシア領ではなかった)に対して、イギリスフランス連合軍の艦隊が砲撃を浴びせて上陸を敢行しようとした。これに対して、艦船の数でも兵力でも劣るロシア側が防戦に成功し、ロシア側の犠牲者100人ほどに対して英仏連合軍は5倍ほどの犠牲者を出して撤退した。
== 戦力 ==
開戦時、ロシア軍は、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフの隷下にカムチャツカ小艦隊を配備しており、このうちペトロパブロフスク付近水域にはフリゲートのアヴローラ(Aurora、44門)と輸送船のドヴィナ(Dvina、12門)が所在していた〔原(1998年)、56頁。〕〔奈木(2005年)、106頁・557頁。〕。このほか、対日開国外交交渉のため、日本及びの近海水域に遣日全権使節・海軍中将エフィム・プチャーチンの指揮する旗艦フリゲート・パルラーダ(Pallada、52門)、汽走スクーナー・ヴォストーク(Vostok、4門)、コルベット・オリーヴツァ(Olivutsa、20門)及び露米会社武装輸送船・メンシコフ公の4隻の艦隊が来航しており〔和田(1991年)、18-24頁・83-96頁。〕、更に老朽化したパルラーダの代艦として新造フリゲート・ディアナ(Diana、52門)が回航されつつあった〔和田(1991年)、87頁・109-110頁。〕〔奈木(2005年)、42頁・95-97頁。〕。
一方、海軍少将デイヴィッド・プライス(David Price)指揮下のイギリス軍太平洋艦隊(Pacific Station)の艦船と、海軍少将オーギュスト・フェヴリエ=デポワント(Auguste Febvrier-Despointes)率いるフランス軍太平洋艦隊の艦船は、合計9隻(計200門)あった。
ロシア軍側では、1854年6月21日に沿海地方インペラートルスカヤ湾でムラヴィヨフとプチャーチンの協議が行われ〔和田(1991年)、130頁。〕〔奈木(2005年)、91頁。〕、東シベリア沿岸の防備強化のためプチャーチンの艦隊を解散し、ヴォストークとオリーヴツァは東シベリア総督の、メンシコフ公は露米会社の指揮下にそれぞれ編入〔オリーヴツァとメンシコフ公は、プチャーチンの使節艦隊編成に際し、それぞれカムチャツカ小艦隊と露米会社から派遣されていたもので、原隊復帰となった。〕。老朽艦パルラーダは、捕獲を避けるため武装解除の上アムール川河口へ送ることが決まった〔〔。プチャーチンはパルラーダからディアナに乗り換え、1854年秋に日本へ開国交渉へ向かっている。
その後、パルラーダは喫水の関係でアムール川河口へは到達できず、インペラートルスカヤ湾内に係留(結氷した湾内で越冬の上、1855年夏に同地で自沈)〔和田(1991年)、131-133頁。〕。アヴローラとドヴィナはペトロパブロフスクの港内に避難させ、この二艦がペトロパブロフスクで予測される英仏連合軍の上陸作戦に備えることとなった。
プライスは母港バルパライソから5隻を出撃させ太平洋を横断し、1854年7月にホノルルでファヴリエ=デポワント率いるフランス艦隊と合流した。アンフィトライト(Amphitrite)、アルテミス(Artémise)、トリンコマリー(Trincomalee)のフリゲート3隻をカリフォルニア沿岸でのロシア艦船に対する警戒へ送り出し、本隊はペトロパブロフスクのロシア艦船と戦うためにカムチャツカ半島に向かった。英仏艦隊は8月28日にカムチャツカに到達した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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