|
ペドロ・ルイス・ラソ・イグレシアス(Pedro Luis Lazo Iglesias, 1973年4月15日 - )は、キューバのピナール・デル・リオ州デル・フィオ出身の元プロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。 == 来歴・人物 == -シーズンから-シーズンまでキューバ国内リーグ "セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル" のベゲロス・デ・ピナール・デル・リオに所属していた。国内リーグでは先発投手として投げており、-シーズンから3シーズン連続で最多勝に輝く。通算257勝で国内リーグ最多勝利記録の保持者。最速97mph(約156km/h)の速球と80mph中盤で切れ味锐い高速スライダーを武器に〔baseball america 〕、キューバ野球界トップクラスの投手として長年にわたり活躍していた。 国内リーグとは対照的に国際大会ではリリーフを務める。アトランタオリンピックから3大会連続でキューバ代表に選ばれ、アトランタとアテネでは金メダルを、シドニーでは銀メダルを獲得している。ただし、これまでは五輪との相性は良いとは言えず、防御率もアトランタ(5.40)、シドニー(4.26)、アテネ(4.91)と期待外れに終わっている。一方、他の国際大会では概して好調で、の第36回ワールドカップでは16.2イニングを投げ、2勝2セーブ・防御率0.54・被安打7に抑える大活躍を見せた。 の第1回WBCでは2次リーグのベネズエラ戦でセーブを挙げ、準決勝のドミニカ共和国戦では4回3分の2のロングリリーフで相手打線を抑え勝利投手となり、キューバの決勝進出に貢献した。 の北京オリンピックでも抑え投手として日本戦に登板し、3回を抑えた。 の第2回WBCでは、2次ラウンドのメキシコ戦で右足の負傷のため途中降板したノルヘ・ルイス・ベラの後を継ぎ、4イニングを2失点にまとめた。 に亡命しアメリカ合衆国へ渡ったホセ・コントレラスとはピナール・デル・リオでチームメートだった。普段は好人物で、にアテネオリンピック前の壮行試合で訪日した際には、社会人野球日本代表との試合に訪れた観客に対して1人1人サインや記念撮影に応じるなど、非常に気さくな一面も見せていた。 12月に国内リーグの引退を表明した。 はキューバ政府の許可を得て、メキシカンリーグのカンペチェ・パイレーツで投手コーチ兼任選手としてプレー。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ペドロ・ラソ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|