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ペナン州(マレー語:Pulau Pinang、英語:Penang、中国語:檳城)は、マレーシアの州の一つである。 南北24キロメートル、東西15キロメートルのペナン島、東洋屈指の長大橋で結ばれる対岸のマレー半島部分のにて構成される。 マレー語発音の「プラウ・ピナン」(''Pulau Pinang'')とは、「檳榔樹 ''Pinang'' の島 ''Pulau''」を意味する。 == 歴史 == * 7世紀頃 - モンスーン貿易の経路にあり、インド・アラブ方面、中国方面からの商人が寄港するようになる。 * 16世紀頃 - インドより出たポルトガルの商人が寄航するようになる。 * 17世紀頃 - マラッカ海峡の北側の玄関口として様々な国の船舶が通る。 * 1786年 - シャムの攻撃を恐れたは、イギリスのによる提案にこたえて、イギリスがクダ王国に軍事援助することと引き換えにイギリス東インド会社にペナン島を賃貸した。この後、現在のペナン島を「プリンス・オブ・ウェールズ島」と改名、イギリス東インド会社の拠点として発展した。イギリスはイギリス人とマレー人の間の存在として華僑やインドのセポイといった移民を増やす政策を行った。 * 1791年 - シャムが隣国のパタニ王国(現在のタイ深南部三県)まで攻めて来たため、クダ王国は軍事援助の約束に従ってイギリスに派兵を要求したが断わられた。ここにイギリスはクダ王国を5年間も騙し続けていた事が発覚した。そのため、クダ王国は10,000人からなる大軍によるペナン島回復戦を計画したが、事前にフランシス・ライトに察知され、ペナンを取り返すどころか対岸の拠点スブランプライを奪われてしまい、ペナンをイギリスに明け渡すことになった。 * 1824年 - イギリス・オランダ両国にて、マラッカ海峡を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭協約を締結。(イギリスはスマトラ島西海岸のとオランダのマラッカを交換し、ペナン、シンガポール・マラッカのいわゆる海峡植民地が完成) * 19世紀終盤 - イギリスによるマレー半島全土の植民地体制が整う。 * 1941年 - 太平洋戦争勃発。日本、イギリスからペナンを含むマレー半島全土とシンガポールを奪取。大日本帝国海軍の潜水艦基地がおかれドイツ海軍とイタリア海軍との共同作戦の為にも使用された。 * 1945年 - 第二次世界大戦終戦。イギリスの植民地に復帰した。 * 1957年- -マラヤ連邦の独立。 * 1960年代 - 自由港の地位を失う。そのため地域経済が低迷し、失業者が街中にあふれる事となった。 * 1980年以降 - 東西交易の舞台から、工業地帯への変貌を遂げる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ペナン州」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Penang 」があります。 スポンサード リンク
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