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ペリービルの戦い : ウィキペディア日本語版
ペリービルの戦い[ぺりーびるのたたかい]

ペリービルの戦い(ペリービルのたたかい、英:Battle of Perryville、またはBattle of Chaplin Hills)は、南北戦争中盤の1862年10月8日南軍のハートランド攻勢(ケンタッキー方面作戦)の頂点として、ケンタッキー州ペリービルの西、チャップリンヒルズで行われた戦闘である。
== 概要 ==
南軍将軍ブラクストン・ブラッグのミシシッピ軍〔戦闘中、通信文には定冠詞付きのミシシッピ(川の名前)軍とされていた。これは北軍のみが川の名前を軍隊の名前とした一般的な規則と逸脱していた。またこれは時には西部軍とも呼ばれた。この軍隊はシャイローの戦いの直前、1862年3月5日に始動し、11月にはブラクストン・ブラッグによってテネシー軍と改名された。:en:Army of Mississippiの項を参照。〕は、北軍ドン・カルロス・ビューエル少将のオハイオ軍の実質的には1個軍団に対して戦術的勝利を上げた。この戦闘はケンタッキーの戦いと呼ばれることもあり、戦闘後間もなくブラッグ軍がテネシー州に引き上げ、境界州であるケンタッキー州は戦争の残り期間北軍の支配するところとなったので、北軍の戦略的勝利と考えられている。
10月7日、ブラッグ軍を追跡していたビューエル軍は3列で小さな交差点の町ペリービルに集結した。北軍は戦闘が拡がる前にスプリングフィールド・パイクでまず南軍の騎兵と小競り合いを演じ、ピーターズヒルでは、南軍の歩兵が到着したときに、両軍共に新鮮な水に接しようと必死になった。翌日の夜明け、ピーターズヒル周りで戦闘が再開し、北軍の師団がパイクを前進し、南軍戦線のすぐ前で止まった。正午過ぎ、南軍師団が北軍左翼アレクサンダー・マクック少将の第1軍団を衝き後退させた。南軍の勢力が戦闘の場に集結したとき、北軍の戦線は頑強に抵抗し反撃したが最終的に幾つかの部隊が潰走して後退した〔NPS .〕。
ビューエルは戦場から数マイル後方におり、戦闘が起こったことに気付かず、午後遅くまで前線に予備隊を送らなかった。北軍の左翼は2個旅団で補強されてその前線を安定させ、南軍の攻撃は散発になって止まった。その後、南軍3個連隊がスプリングフィールド・パイクで北軍師団に攻撃を掛けたが、反撃されてペリルビルに後退した。北軍が追撃して暗闇前の時間帯に通りで小競り合いが起こった。この時までに北軍の増援が南軍の左翼を脅かしていた。ブラッグは兵士や物資が不足するようになり、夜の間に撤退し、カンバーランド渓谷を通って東テネシーまでの後退を続けた〔。
両軍の戦った戦力に対する損失を考えれば〔、ペリービルの戦いは南北戦争の中でも流血の多い戦闘であり、ケンタッキー州では最大の戦いとなった〔Eicher, p. 367.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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