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ペール・アルビン・ハンソン(、1885年10月28日 - 1946年10月6日)は、スウェーデンの政治家。死去するまで、1925年から社会民主労働党の党首、1932年から2度に亘って首相を務め、第二次世界大戦中は中立政策を維持しながら共産党を除いた主要政党を取り込んで連立政権を構成して、挙党一致で国防にあたり、中立を堅持した。前世紀からのスウェーデン政治の円熟した遺産である社会民主主義をより力強く確立する為に、法制化を通した中立政策と福祉政策双方の拡散を試み、生産手段の国有化より協同組合主義を選択した。首相在任中の帰宅途中に、心臓麻痺により死去した。 == 経歴 == === 生い立ち === マルメの貧しい労働者の家庭に生まれる。幼少の頃から商店の小間使い(日本で言う丁稚)を勤めながら成長したという根っからの「勤労大衆」だった。ハンソンは、無学故に差別される貧しい庶民の喜びと悲しみと希望と絶望を深く呼吸して共感することが出来た。 専業政治家第1世代に属するハンソンは、1903年に青年社会民主党の創設に関与し、1908年~1909年にかけて議長を務めた。当時は保守的なアルヴィッド・リンドマン首相の政権下で、全てのスウェーデン人男性に対する普通選挙権と比例代表制が広まっていた時期だった。カール・カウツキーの社会改良主義的なビジョンを持っていたハンソンは、ヤルマール・ブランティングの後を継ぐ形で''Social-Demokraten''紙の編集者となり、1920年にはスウェーデン初の社会民主主義内閣において、国防長官に指名された。ハンソンはブランティング内閣には3期全てに入閣し(1920年~25年)、軍備予算を持続的に削減し続けた。ブランティングの死後、ハンソンは社会民主労働党の党首に浮上し、合法性の問題に若干苦しめられたものの、すぐに反発を抑え込み、1928年に正式に党首となった。 1926年にカール・グスタフ・エクマンによる禁酒令推進運動が力を失うと、ハンソンは社民党を多数党として維持する為に社会主義者と連帯して、1928年に選挙に挑んだ(以降2010年まで社民党は左翼と連帯しなかった)。保守党とは実用主義と反ナチ主義という点では一致したが、大規模な国有化より福祉拡大を指向した。ハンソンはこの時期『国民の家』(Folkhemmet)をスローガンとした。国は全ての国民が幸福を享受する事が出来る『家』にならなければならない、というこの隠喩は非常に大きい大衆的説得力を発揮した。「国家は全ての国民の為の良い家にならなければならない」そう主張していたハンソンは、余生を送るための自身の持ち家を一軒も有せず、生涯長屋暮らしを貫いた。 1936年6月、多数派によってハンソンが辞任圧力を受けると、彼は9月の総選挙まで臨時に維持する“休暇内閣”を構成した。以降、多数派であるアクセル・ペールソン=ブラムストルプとの追加交渉を通じて再度連立内閣を構成して、ペールソン=ブラムストルプを農務大臣として起用して、3年間政権を維持した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ペール・アルビン・ハンソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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