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西沙諸島(せいさしょとう、中:)、ホアンサ諸島〔ベトジョー ベトナムニュース 〕(越:,チュノム:群島黄沙)またはパラセル諸島(英:Paracel Islands)は、中華人民共和国の海南島の南東約300kmに位置し、50近いサンゴ礁の島と岩礁で構成されている〔小谷俊介(国立国会図書館調査及び立法考査局外交防衛課)「南シナ海における中国の海洋進出および「海洋権益」維持活動について」(PEF)、レファレンス平成25年11月号 29ページ〕。全ての島嶼を中国が実効支配しているが〔小谷俊介(国立国会図書館調査及び立法考査局外交防衛課)「南シナ海における中国の海洋進出および「海洋権益」維持活動について」(PEF)、レファレンス平成25年11月号 30ページ〕、ベトナムと中華民国(台湾)も領有権を主張している〔小谷俊介(国立国会図書館調査及び立法考査局外交防衛課)「南シナ海における中国の海洋進出および「海洋権益」維持活動について」(PEF)、レファレンス平成25年11月号 28ページ〕。 == 概要 == 西沙諸島は、東北部のアンフィトリテ諸島(宣徳環礁)と西南部のクレスセント諸島(永楽環礁)の 2つに大きく別けられる〔。 1907年に西沢吉治が東沙諸島に移住し、日本と清国に領土紛争が起こると、周辺の島嶼にも同様の累が及ぶことを恐れた両広総督の張人駿は、副将の呉敬栄をして西沙諸島の開発をさせることとし、1909年に170余人を率いて上陸調査を行っている。しかし開発計画自体はその後立ち消えとなり、占拠や移住は行われていない〔『中国諸南海群島文献彙編』(台湾学生書局 民国71年)pp.194〕。1952年発効のサンフランシスコ講和条約により、日本は西沙諸島に関する権利、権原および請求権の放棄を国際社会に向けて明言した。 1954年の第一次インドシナ戦争の終結に伴い、旧宗主国のフランスが去って以後、永興島(ウッディー島)に部隊を駐屯させた中国が、1956年に東のアンフィトリテ諸島を占領する。また北緯17度以南に成立したベトナム共和国(南ベトナム)が西のクレスセント諸島の複数の島礁を占領する。そしてベトナム戦争(1965年 - 1975年)中の1974年1月、中国軍が西のクレスセント諸島に侵攻して南ベトナム軍を排除し、西沙諸島全体を占領した。この際、南ベトナムの護衛艦1隻が撃沈された(西沙諸島の戦い)。1974年1月19日に中国によって占領され、同諸島は全て中国の実効支配下にある。 小さな島々で構成され、民間人はほとんど居住していない。島そのものにほとんど価値はないが、広大な排他的経済水域(EEZ)内の海洋資源が重視されているほか、軍事的要衝としての価値がある。近年、中国がこの多くの島に港や施設を建設しており、西沙諸島を含めた南海諸島最大の島である永興島には滑走路のほか、あらゆる施設を建設し、実効支配を強めている。 2012年9月3日付人民日報(海外版)は、中国国家海洋局が西沙諸島、スカボロー礁(黄岩島)と尖閣諸島の周辺海域を人工衛星や航空機で遠隔監視する「海域動態監視観測管理システム」の範囲内に組み込んだと報じた〔尖閣・南シナ海、衛星や航空機で遠隔監視…中国 読売新聞2012年9月4日13S版2面〕〔海域管理に動態監視観測を実施 人民日報2005年12月28日08:14 (北京時間)〕。 2016年1月30日に、アメリカ海軍の横須賀基地所属イージス駆逐艦「カーティス・ウィルバー」を派遣し、トリトン島から12海里(約22km)内を航行させたことをアメリカ国防総省が明らかにした。南シナ海での航行の自由を行動で示す作戦(「航行の自由」作戦、Freedom Of Navigation Operation)の一環で、前年10月の南沙諸島(スプラトリー諸島)での実施以来2度目であり、これに対して中国外交部は批判する談話を発表した。 同年2月17日、中国が永興島(ウッディー島)に地対空ミサイルを配備したことが明らかになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西沙諸島」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Paracel Islands 」があります。 スポンサード リンク
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