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ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア(José Gaspar Rodríguez de Francia、1766年1月6日 - 1840年9月20日)は、パラグアイの政治家、初代元首。フランシア博士(''Dr. Francia'')とも。 パラグアイの独立運動を指導し、初代元首である執政官を務め、独裁政治を敷き、先進的な政策を推進した。パラグアイの1万グアラニー紙幣に肖像が使用されている。 == 生涯 == アスンシオン近郊の:en:Yaguarón出身。ブラジルから渡ってきたポルトガル人を父に持ちまじめな性格に育つ。聖職者になるためにリオ・デ・ラ・プラタ副王領のコルドバのコルドバ大学に入学して神学(カトリック)の学位を取得し、この時に得た学位により、終生博士(Doctor)を名乗った〔増田(2003:202)〕。その後スペインからの独立運動に参加しパラグアイの指導者となる。 1811年にマヌエル・ベルグラーノ率いるブエノスアイレス軍がパラグアイ軍に破れ、5月15日にパラグアイが独立を宣言すると、パラグアイにおける数少ない高等教育修了者の一人として独立運動に参加し、その後指導者としての地位を固めた。1814年に任期3年の過度に権力が集中した執政官に就任し、1816年には終身執政官となった。 独裁化が進むフランシアに対して1820年に暗殺計画が発覚したが、この計画未遂に終わった後、翌1821年に首謀者ら73人を処刑して権力基盤を固めた〔田島(2011:101)〕。終身執政官としてのフランシアは1824年に議会を解散させ、大臣も任命せず、裁判所もなしに26年間、3人の重臣を従えてパラグアイに君臨した。 晩年には暗殺を恐れながらも1840年に自然死した〔増田(2003:203)〕。盛大な国葬が行われたが、墓はまもなく何者かによって暴かれた〔。 フランシアは、パラグアイの権力を一手に集めて独裁を行う一方、当時としては最先端の概念である保護貿易を行い経済発展に力を注いだ。さらに、混血を奨励し国民のメスティーソ化を進めることで無理やり人種別の階級社会を破壊するなど、現在にまでつながるパラグアイの体制の先鞭をつけた。フランシアの事績はトーマス・カーライルの『英雄崇拝論』(1841年)にて言及されている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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