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ホセ・アンヘル・ナポレス(、1940年4月13日 - )は、キューバ出身の元プロボクサー。元WBA・WBC世界ウェルター級王者。キューバ革命を機にメキシコへ亡命、その強さから世界王者たちに敬遠され、長く無冠の帝王として畏怖された。技巧と強打を併せ持ち、卓越した防御技術と鋭いコンビネーション・ブローで王座を2度獲得、通算13度の防衛を成し遂げた、1970年代のリングを代表する名王者。 == 来歴 == サンティアーゴ・デ・クーバ生まれ。極貧の家庭に生まれ、幼少時からストリート・ファイトで小銭を稼いでいたという。キューバの英雄キッド・ギャビランに憧れてプロボクサーを志した。バスの運転手をしながらアマチュアでキャリアを開始、1954年にサンティアゴのゴールデン・グローブを獲得するなど、113勝1敗の驚異的な戦績を残してプロに転向、1958年8月2日、フリオ・ロハスを1回KOし、バンタム級でデビューを飾った。 その後のキャリアは順調と思われたが、1961年にキューバ革命が勃発、全てのプロスポーツが禁止されたことを契機に同年7月、身重だった妻を残して単身メキシコへ亡命する。 メキシコに居を構えてからは、二つの判定負けを除いて順調に白星を重ね、その中には、後のWBA・WBC世界ジュニアウェルター級王者カルロス・エルナンデスを破った1勝も含まれる。1963年にはジュニアウェルター級で世界ランキング入り、1964年には世界1位にまで浮上したが、世界挑戦の標的としたライト級王者カルロス・オルチス、ジュニアウェルター級王者サンドロ・ロポポロは、圧倒的な強さを見せるナポレスを敬遠し、世界挑戦のチャンスは一向に巡って来なかった。指名挑戦試合の制度が存在しなかった当時においては、ナポレスに打つ手はなかったのである。 因みに1964年3月1日には初来日、シュガー・ラモス対関光徳戦の前座で当時世界10位の吉本武輝と対戦し、初回KO勝ちを収めている(吉本のセコンドを務めたエディ・タウンゼントによると「第1ラウンドが始まったのでリングを降り、振り返ってリングを見上げたら、吉本が倒れていた」とのことである)。 1967年にはウェルター級の世界1位となるが、時の王者エミール・グリフィスへの挑戦も実現しなかった。しかし、グリフィスのミドル級転向により空位の王座を得た技巧派カーチス・コークスがナポレスとの防衛戦を快諾、遂に世界挑戦の機会を掴んだ。1969年4月18日に行われた試合では、ナポレスは自分より長身の相手に鋭いジャブを当て続け、コークス得意のストレートを巧みにかいくぐってパンチを的確にヒットさせ、コークスの顔面を無残に変形させる一方的な展開で13回終了KO、遂に念願の世界王座を獲得した。ナポレス29歳であった。 同年6月29日、コークスを返り討ちにして初防衛を果たしたのを皮切りにエミール・グリフィス、アーニー・ロペスと強豪を退けて3度防衛を達成したが、1970年12月3日、ビリー・バッカスとの4度目の防衛戦でバッティングにより左目をカット、4回負傷KO負けで王座を失った。 しかし、翌1971年6月4日に行われた再戦では逆にバッカスを8回KO、WBA・WBC王座を奪還する。その後は技巧派ヘッジモン・ルイス、強打者アドルフ・プルートやアーニー・ロペスら強豪を相手に防衛を重ねる。1972年11月には再び来日、和歌山で東洋太平洋チャンピオン龍反町と2ラウンドのエキシビション・マッチを行い、日本のファンにその技巧の片鱗を披露している。 1974年2月9日、パリでカルロス・モンソンの持つWBA・WBC世界ミドル級王座に挑戦。モンソンの強打を浴びて7回開始のゴングに応じられずKO負けとなり、王座獲得ならず。同年8月3日、ニューヨーク州認定世界ウェルター級王者ヘッジモン・ルイスと統一戦を行い、9回TKO勝ち。 1975年5月14日、WBA王座を返上した。同年7月12日、アルマンド・ムニスとの再戦に判定勝利、王座連続10回防衛を達成した。同年12月6日、英国人ジョン・H・ストレーシーの猛攻に屈し6回KO負けでWBC王座を失うと、この試合を最後に引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホセ・ナポレス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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