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ホワイティ・ハーゾグ(Dorrel Norman Elvert "Whitey" Herzog , 1931年11月9日 - )はMLBで活躍したアメリカ合衆国・イリノイ州ニューアセンズ出身の野球選手(外野手)。左投左打。 のちスカウト(日本のプロ野球ではスコアラーにあたる)、コーチ、監督、ゼネラル・マネージャー(GM)、ファームシステムディレクターを務め、監督としてワールドシリーズ制覇を果たす。 == 人物・来歴 == ニューヨーク・ヤンキースに入団。 ヤンキースでのメジャー昇格はならなかったが、スプリング・トレーニング(日本のプロ野球でいう春季キャンプ)で接した、アメリカ野球殿堂入りした当時の監督ケーシー・ステンゲルから受けた影響は、後年監督を務めた際に役立った。 ワシントン・セネターズ(現在のミネソタ・ツインズ)に移籍して1956年4月17日にメジャー初出場を果たす。 その後、1958年途中にカンザスシティ・アスレチックス(現在はオークランド)、1961年にボルチモア・オリオールズ、1963年にデトロイト・タイガースに移籍し、その年限りで現役を引退した。 選手としての通算成績は、634試合に出場して打率.254、本塁打25、打点172、得点213、二塁打60、三塁打20であった。 引退後、1964年にアスレチックスのスカウトに就任。翌1965年にコーチに就任し、1966年にはニューヨーク・メッツに移籍。 1967年にはフロントに転じ、1969年の「ミラクル・メッツ」と言われたワールドシリーズ制覇に貢献した。 1973年にテキサス・レンジャーズの監督に就任したが、138試合で47勝91敗の成績でシーズン終了を待たずに解任。 翌1974年はカリフォルニア・エンゼルスのコーチを務め、途中4試合代理監督を務める。 1975年途中にカンザスシティ・ロイヤルズの監督に就任。初年度に66試合で41勝をあげ、チームは最終的に2位に躍進。 1976年からは3年連続してア・リーグ西地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズでいずれもヤンキースに敗れる。 ロイヤルズでは、2位に終わった1979年限りで解任される。 1980年途中にセントルイス・カージナルスの監督に就任。シーズン途中でGMを兼任し、1982年までGM兼監督となる。 50日間に及ぶストライキでシーズンが二分された1981年には前後期いずれも2位。 そして1982年には92勝をあげて地区優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでもアトランタ・ブレーブスを破り、ワールドシリーズでもミルウォーキー・ブルワーズを破り、ワールドチャンピオンに輝いた。 1983年以後は監督に専念し、1985年と1987年にもチームをワールドシリーズに導く。 1985年にはかつて監督を務めたロイヤルズを3勝1敗と追い込むが、第5戦から3連敗して逆転負けを喫する。 第6戦で「誤審」を犯した審判ドン・デンキンガー(詳細はこちら参照)が球審を務めた第7戦では、ストライク・ボールの判定に抗議し、投手ウォーキーン・アンドゥハー共々退場処分となった。 1987年にも敵地メトロドームでの第1戦、第2戦と連敗の後、本拠地ブッシュ・スタジアムで3連勝してミネソタ・ツインズを追い込むが、再び敵地の第6戦、第7戦に連敗した。 カージナルスの監督を1990年途中まで務め、退任。1993年と1994年にはエンゼルスのGMを務めた。2009年12月のベテランズ委員会の選考において、2010年のアメリカ野球殿堂入りが決定した。 殿堂入りを記念し、同年7月にカージナルス在籍時の背番号『24』は永久欠番に指定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホワイティ・ハーゾグ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Whitey Herzog 」があります。 スポンサード リンク
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