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ホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年 - 1208年、1215年 - 1254年)は、神聖ローマ帝国の王朝。シュタウフェン朝およびシュタウファー朝とも呼ばれる。シュヴァーベン大公でもあった。家名はシュヴァーベンのシュタウフェン城を発祥とする。イタリアではシチリア王国を支配し、1266年まで続いた。 == 歴史 == === 前史 === ホーエンシュタウフェン家は、アラマンニ人の有力貴族で、ビューレン伯として統治していた。 1079年、ザーリアー朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ1世に娘アグネスを娶わせ、合わせてシュヴァーベン大公に任命した。これは既にシュヴァーベン大公だったルドルフ・フォン・ラインフェルデンが対立王としてハインリヒ4世と衝突していたための措置だったが、フリードリヒ1世はラインフェルデン家の断絶後もツェーリンゲン家のベルトルト2世と戦い、1098年の和睦で単独のシュヴァーベン大公と認められた(ベルトルト2世はツェーリンゲン大公を称した)。アグネスとの間の息子フリードリヒ2世、コンラート3世兄弟はザーリアー朝断絶後の帝位継承を巡ってズップリンブルク家の皇帝ロタール3世と衝突したが、1135年に和睦している。 1137年にロタール3世が嗣子が無く死去したため、選帝侯達はコブレンツにて1138年3月7日、次の皇帝選挙を行なった。ロタール3世は後継者に婿でヴェルフ家出身のハインリヒ傲岸公を望んでいたが、投票ではホーエンシュタウフェン家のコンラート3世が最多票を得て、新たな神聖ローマ帝国の君主(ドイツ王)として選出されたのである。傲岸公はバイエルン公とザクセン公を兼ねていたため、選帝侯達が強力な皇帝の出現を望まず、当時としては弱小勢力に過ぎなかったコンラート3世が新たな君主として選ばれたからである。しかし、ローマ教皇から戴冠式は受けられなかったので、コンラート3世は正式な皇帝に即位することなく終わっている。 1147年、コンラート3世はローマ教皇エウゲニウス3世の命を受けて第2回十字軍に参加し、ダマスカスを包囲したが、イスラム軍との戦いに敗れて命からがら撤退している。また、傲岸公とも神聖ローマ帝国の君主の地位をめぐって争うなど、その治世は多難を極めた。しかしコンラート3世は皇帝権力の強化、傲岸公の捕縛、ホーエンシュタウフェン家の領土拡大に成功を収め、巧みな外交戦略をもってドイツ諸侯と提携を図るなどしている。1152年、病に倒れて死を悟ったコンラート3世は、甥で兄フリードリヒ2世の息子フリードリヒ1世を後継者として指名し、間もなく世を去った。コンラート3世には息子がいたが、甥のフリードリヒ1世の能力を高く評価していたため、あえて後継者として指名したのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホーエンシュタウフェン朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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