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ホージャ・ニヤーズ : ウィキペディア日本語版
ホージャ・ニヤーズ

ホージャ・ニヤーズ・ハジ(、、1889年 - 1941年)は、新疆東トルキスタン)におけるクムル・ハン国:en:Kumul Khanateや中国人統治者の金樹仁やそののちの回族軍閥馬仲英に対しての、1931年のハミ暴動(:en:Kumul Rebellion)を始めとしたいくつかの反乱を先導した東トルキスタン独立運動のリーダーである。彼は東トルキスタン・イスラーム共和国(第1次東トルキスタン共和国)の最初にして唯一の総統として知られる。東トルキスタン・イスラーム共和国は1933年初頭から1934年に中華民国に打倒されるまで続いた短命政権である。後に新疆省の副主席になった。
== 前半生と反乱 ==
1889年、ホージャ・ニヤーズは新疆クムル地区の山間部の小さな村の七道溝に生まれた。その父のアミーン・ニヤーズ(伊敏尼牙孜)は、:zh:哈密回王(クムル・ハン国)の王府官員であった。26歳の時に初めて1907年の小作農や山岳民による、クムルの(清朝によって半自治を許された)世襲領主のマクスド・シャー:en:Maqsud Shahに対する反乱(吐爾巴克暴動)に参加した。反乱に失敗すると、奇台モリへ逃れ、その後ボルタラ一帯に行き、狩りと鹿茸の販売で生計をたてた。その後トルファン地区へ逃れて「アスタナ」(Astana、宗教学校)に入学し、将来有望なウイグル・トルファン革命家として知られるようになる。一年の勉強の後トクスン県、トルファンからメッカ巡礼に行き、「ハッジ」の称号を得る。
1912年、ホージャ・ニヤーズは新疆に帰還し、クムル・ハン国に対するティムル・ハルパ(Timur Halpa、تۆمۈرنىياز)の先導する反乱(ハミ暴動)に参加した。新疆省長の楊増新は衝突を仲裁しティムル・ハルパをクムル地区の県の軍団の司令官に昇進させた人物であるが、彼の開いた宴の上でティムル・ハルパがだまし討ちにされると、ホージャ・ニヤーズは再び亡命せざるを得なかった。
1916年、ロシア国境のイリウイグル人によって築かれた町ヤルカンドセミレチエ(:en:Zhetysu)に来た。彼らは清軍が新疆イリ地方を取り戻した1881年以降ロシアに亡命した。ヤルカンドでは、在地ウイグル人の指導者で裕福な商人で1917年のロシア革命以降は小さなウイグル人自治グループを組織していたValiahun Yuldashevの保護下にいた。 ロシア内戦がセミレチエに飛び火すると、ホージャ・ニヤーズは1921年にウイグル人革命家で、コミンテルン傘下の革命的民族的組織の’’Inqlawi Uyghur Ittipaqi'’(革命ウイグル同盟)の設立者の一人であるAbdulla Rozibakievに面会した。
その後トクスン県のチャグルバン・ニヤーズ(長庫爾班·尼牙孜)の元に投じると、推挙を得てハミに帰還した。シャー・マフスドはニヤーズの槍の腕前を気に入って免罪し、王府侍衛隊の副隊長とした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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