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デビッド・デウィット "ホーマー" ベイリー(David Dewitt "Homer" Bailey, 1986年5月3日 - )は、アメリカ合衆国・テキサス州ラグランジ出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。現在はMLB・シンシナティ・レッズに所属。ホーマーはあだ名。 == 経歴 == ラグランジ高校時代の通算成績は41勝4敗、防御率0.98、298イニングを投げ536奪三振。のドラフトでシンシナティ・レッズから1巡目(全体7位)の指名を受け入団。 球団は故障を防ぐためまで1試合75球の投球制限を課した〔「注目のルーキーたち 明日のスターを探せ!」『スラッガー』2007年5月号、日本スポーツ企画出版社、2007年、雑誌15509-5、55頁〕。この投球制限がなくなったはシーズン途中にAA級へ昇格を果たし、ピッツバーグで行われたオールスター・フューチャーズゲームに選出され勝利投手となった。 6月8日にジャスティン・アップトンに次ぐこの年のリーグ2番目の若さでメジャーデビューを果たした。しかし、スタミナに問題があり、9回の先発登板でクオリティ・スタートは1回しかなかった。この年は9試合に先発登板し、4勝2敗と比較的よく勝ったが、防御率5.76・WHIP1.57と打ち込まれがちで、四球と奪三振数が同等など、課題も残った。 、8試合に先発登板したが、防御率7.93・WHIP2.09・36イニングで8被本塁打と大炎上。0勝6敗に終わり、引き続き結果を残せなかった。 は、6月下旬にメジャー昇格し、そのまま先発ローテーションに入って20試合に登板。最後の9登板では防御率1.70・6勝1敗とエンジン全開になり〔、トータルでは防御率4.53・8勝5敗・113.1イニングという成績を残した。また、この年はマイナーで89イニングに投げており、メジャーとの通算では203.0イニング投げた事になり、スタミナ不足も克服した〔。 は、5月12日のピッツバーグ・パイレーツ戦で初完投・初完封を記録。しかし、その後に肩を故障してDL入りする羽目になり、約3ヵ月間、戦線離脱した。この離脱もあって19試合の先発登板に留まったが、防御率4.46やWHIP1.37は前年よりも改善され、成長の跡は示した。 は、キャンプ中に肩を痛めて開幕をDL入りで迎えると、5月に復帰した直後に肩痛を再発させ、そこでもDL入りした。この年は、過去2シーズンとほぼ同等の22試合に先発登板し、防御率4.43・チーム2位タイの9勝7敗という成績を記録。しかし、防御率にあまり改善が見られず、故障も頻発するため、期待度は下がりつつあった〔。 9月28日、PNCパークで行われたパイレーツ戦で球団史上15人目のノーヒットノーランを達成した。また、このノーヒットノーラン達成が2012年度ノーヒッター7回目(完全試合と継投での達成を含む)の達成となり、近代野球以降でのメジャーリーグ最多タイ記録となっている。この年は故障離脱する事なく、リーグトップタイの33試合に先発登板。2完投・QS21も含まれており、防御率3.68・13勝10敗・168奪三振・WHIP1.24と活躍した。ポストシーズンでも、サンフランシスコ・ジャイアンツとのディビジョンシリーズで7.0イニングを1安打1四球1失点10奪三振と力投。ようやく、先発の軸として才能を開花させた。 7月2日、グレートアメリカンボールパークでのサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で、自身2度目のノーヒットノーランを達成した。同年は更なる飛躍を遂げ、11勝12敗と負け越したものの、防御率3.49・199奪三振 (リーグ7位タイ) ・WHIP1.12と、他の主要スタッツは軒並み向上した。 2月20日にレッズと総額1億500万ドルの6年契約に合意した。この年は8月7日の対クリーブランド・インディアンズ戦を最後に外れ、9月初旬に腕の手術を受けた。この年は23試合の先発登板に留まり、規定投球回にも届かなかった。しかし、投げた試合ではハイレベルなピッチングを展開し、防御率3.71・1完封含む9勝5敗・WHIP1.23という好成績を残した。 は4月に2試合先発の後、トミー・ジョン手術を受けることとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホーマー・ベイリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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