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ホーマー・レイン(Homer Lane、1875年 – 1925年) は、アメリカ合衆国生まれの教育者。非行少年たちを、彼らに自身の生活をコントロールするすべを訓練してやることで、その行動や態度を改善することができるという信念で、非行少年たちの寄宿舎教育をアメリカ、イギリスで実践した。 ==生涯== コネチカット州の生まれ、マサチューセッツ州サウスボロのペータース・ハイスクールで工作科の教師としてのキャリアをスタート。その後、彼はミシガン州のデトロイトに移り、そこで彼はフォード・ボーイズ・リパブリックという施設で法を踏み外した若者たちの教育に8年間従事した。 1912年、彼はイギリスから、サマセット州ドーセットにリトルコモン・ウェルスという非行少年たちの更生教育の施設を作るのでそこで指導をしてみないかと招聘を受け、イギリスに渡る。施設を作ったのは、ジョージ・モンタギュー(のち第9代サンドウィッチ伯爵)である。施設は、彼の農場、フラワーズ農場が提供された。ここでの仕事は、A・S・ニイルに大きな影響を与えた。 ここは当初、男子のみでスタートしたが、のちにレインが非行少女3人をロンドンから連れてきて、男女共学になった。教育のモットーは、愛情と子どもたちの自治、男女共学であったが、この女子たちが、施設内に軋轢を生み出し、ついには数度の施設からの逃亡を企て、捕まった時に、施設では暴力が常時横行していると虚言で訴えたため、内務省から調査が入り、レインは有罪にこそならなかったものの、そこを辞めることを余儀なくされ、施設は閉鎖された。施設は5年間でその短い歴史を閉じた。〔ホーマー・レイン『親と教師に語る』文化書房博文社 1949年のA.A.デイヴィットによる序文〕 レインは、ロンドンに移り、教師などを相手に教育カウンセリングや講演活動を行った。カウンセリングでは、フロイドとユングから多くのものを学んたが、彼らの批判者でもあった。いずれの学派にも属さず、読字に自由に研究を積んでいた。A・S・ニイルは、この当時のクライエントの1人である。心理相談相手の女性から多額の金銭を受け取っていたことから、親族から訴えられ、その結果、国外退去を命じられる。 ホーマー・レインは最初の妻コーラ・バーニィとの間に2人の子どもをもうけた。最初の妻が病死し、その後再婚した二度目の妻との間には3人の子どもがあった。 また二度目の妻とは、1人の娘を養子にしている。彼は、イギリスで外国人としての現住所の届けの変更報告を怠ったことを理由に国外退去を命じられて、フランスに渡り、ニースで腸チフスを発症。パリのアメリカン病院に移送され、そこで亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホーマー・レイン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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