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ボイン川の戦い(Battle of the Boyne)は1690年7月1日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では7月12日)、ウィリアム3世率いるイングランド・オランダ連合軍と、退位させられたジェームズ2世率いるアイルランド軍の間に行われた戦い。アイルランドのボイン川河畔で行われた。イングランド軍36,000人とアイルランド軍25,000人が戦い、ウィリアム3世が勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにした。 == 戦闘前 == 1688年の名誉革命で王座から追放されたジェームズ2世は、フランス王ルイ14世を頼りフランスへ亡命、代わりにジェームズ2世の甥でオランダ総督ウィレム3世がイングランド貴族に招聘され、妻でジェームズ2世の娘メアリーと共にイングランド王に即位、イングランドはウィリアム3世・メアリー2世の共同統治となり、翌1689年に権利章典が採択され新政権が誕生した。 しかし、スコットランドではジェームズ2世を支持するジャコバイトのダンディー子爵ジョン・グラハムが反乱を起こし、討伐に向かった政府軍の戦いでダンディーは戦死、反乱は終息したが、アイルランドでもティアコネル伯リチャード・タルボットを始めとするジャコバイトが新政権を認めずジェームズ2世を支援する方針を採ったため、イングランドは不安定な状態に置かれていた。フランス王ルイ14世も大同盟戦争で大陸侵略を行う上でイングランドを釘付けにするためジェームズ2世を援助してフランス艦隊を派遣、王位奪還を狙うジェームズ2世が3月にアイルランドへ渡海してジャコバイトがウィリアマイト(ウィリアム3世支持者)の勢力圏に侵攻すると、イングランドもアイルランド出兵に踏み切りウィリアマイト戦争が始まった〔友清、P117 - P121、P130 - P133。〕。 ジャコバイトはアイルランドの大半を制圧していて(西部のコノート・南部のマンスター・東部のレンスター)、北部アルスターの都市ロンドンデリーとエニスキレンで抵抗していたウィリアマイトを討つべく北上したが、4月から始まったロンドンデリー包囲戦は8月に切り上げて失敗、7月31日のニュータウンバトラーの戦いに敗れてアルスターはウィリアマイトが平定した。イングランドは8月にフレデリック・ションバーグ率いる遠征軍をアイルランドへ送り出しベルファストから南下したが、疫病の流行で無駄に兵を失う羽目になりベルファストへ撤退、戦線はそれ以上広がらなかった。 状況が打開したのは翌1690年になってからで、ウィリアム3世は自らアイルランドへ向かうことを決めて6月にイングランドから出航、ベルファストに到着してションバーグと合流、ダブリンを目指して南下を開始した。ジェームズ2世も迎撃の姿勢を取りボイン河畔のドラハダで待ち受けて7月1日に戦闘開始となった〔友清、P133 - P144。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボイン川の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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