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ボシュニャク人[ぼしゅにゃくじん]
ボシュニャク人(、)は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。日本語表記としては他にボシュニャック人、ボスニャク人、ボスニアク人、ボスニアック人などの表記が存在する。ボシュニャク人という名前はバルカン西部にあるボスニアの名前に由来している。ボシュニャク人はボスニア・ヘルツェゴビナを彼らの民族的故地と考えている。 バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にもポマク人のようなブルガリア人ムスリムの民族や、アルバニア人、トルコ人、ロマのような非スラブ系ムスリムも存在する。 == 概要 == ボシュニャク人の概念はボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム化と関係している。この地域のイスラム化はオスマン帝国の支配下に入った1480年代ごろである。それまではボスニア・ヘルツェゴビナではローマ・カトリックなどキリスト教が信仰されていたが、カトリックなのにラテン語ではなくスラブ語で典礼を行うほか、土俗信仰に基づいた「二元論」の採用など教義が独自の変容を遂げ「異端」とみなされるようになり、ついに「ボスニア教会」と呼ばれる独自の教会を設立するに至った。カトリックが一部の支配階級の信仰であり、大半の民衆は異端思想にひかれていったこと。しかし異端の「ボスニア教会」は広範な布教をするわけでなく修道院などで信仰されていたことや体系だった教義を確立するに至らなかったことが、オスマン帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを支配下に置いた時に、民衆レベルでイスラム教が急速に浸透する要因となった。 また地主・富農階層などは新しい支配者オスマン帝国に既得権を安堵してもらうためにイスラム教に改宗した。そのため少数のイスラム教徒地主が多数のセルビア人、クロアチア人小作農を使用するという社会構造がオスマン帝国統治時代には見られた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボシュニャク人」の詳細全文を読む
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