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ボビー・ダンカン("Big Bad" Bobby Duncum、本名:Robert Eldon Duncum、1944年8月14日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州オースティン出身。 カウボーイ・ギミックの大型ラフファイターとして、NWA、AWA、WWFの各団体で活躍した。息子のボビー・ダンカン・ジュニアも元プロレスラーである。 == 来歴 == ウエスト・テキサス州立大学ではアメリカンフットボールの選手として活躍。1968年にNFLのセントルイス・カージナルスに1シーズン所属した後、ドリー・ファンク・シニアにスカウトされてプロレスラーに転向〔。以降、テキサスを中心にジョージアやフロリダなどNWAの南部テリトリーを転戦する。 フロリダでは1971年7月1日にボブ・ループからブラスナックル王座を奪取。テキサス西部のアマリロ地区でも1972年にリッキー・ロメロやパク・ソンとブラスナックル王座を争うなど、ラフファイターとしてのキャリアを積んだ。アマリロ地区では同年7月9日、ディック・マードックと組んでマシオ駒&大熊元司を破り、ウエスタン・ステーツ・タッグ王座も獲得している。1973年はジョージア地区にて、ビル・ワットとの大型カウボーイ・コンビで活躍した。 1974年、ニューヨークのWWWFに進出。グラン・ウィザードをマネージャーに迎え、同年11月から翌1975年3月にかけてブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦した。1976年からはAWAに参戦し、ボビー・ヒーナンをマネージャーにブラックジャック・ランザとカウボーイ・タッグを結成。同年7月23日、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを破り第32代AWA世界タッグチャンピオンとなる。以降、翌1977年7月7日にグレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルのハイ・フライヤーズに敗れるまで戴冠を続け、ランザと共にAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルの用心棒的なヒールとなって活躍した。 1978年にはフロリダ地区で覆面レスラーのザ・スポイラー2号(''The Spoiler #2'')に一時的に変身。同年6月27日、1号のドン・ジャーディンとの「ザ・スポイラーズ」でジャック&ジェリーのブリスコ・ブラザーズからフロリダ・タッグ王座を奪取した。素顔に戻ると、同年8月30日にジャック・ブリスコを下してフロリダTV王座を獲得。10月3日にはキラー・カール・コックスと組んでスティーブ・カーン&ジム・ガービンを破り、フロリダ・タッグ王座に返り咲いている〔。フロリダではゲーリー・ハートがマネージャーを務め、ダスティ・ローデスやペドロ・モラレスとも抗争を展開した。 1979年、キャプテン・ルー・アルバーノを新しいマネージャーとして再びニューヨークに登場。同年12月17日には空位となっていたWWFヘビー級王座を賭けて、マディソン・スクエア・ガーデンでボブ・バックランドと王者決定戦を行った〔。試合には敗れたものの、以降も約1年間に渡ってWWFをサーキットし、アンドレ・ザ・ジャイアントともMSGをはじめ東部各地で対戦。1980年12月29日にはMSGでアントニオ猪木のNWFヘビー級王座にも挑戦している。 同時期にはジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区にも出場し、1980年から1981年にかけてブラックジャック・マリガンと大型カウボーイ同士の喧嘩試合を展開、同地区認定のブラスナックル王座を争った。同地区ではジン・アンダーソンのマネージメントのもとレイ・スティーブンスやジミー・スヌーカと共闘、当時フェイスターンしていたリック・フレアーやマスクド・スーパースターとも対戦した。ダンカン自身も、1981年は地元テキサスのサンアントニオ地区にて一時的にベビーフェイスに転じており、タンク・パットン、バック・ロブレイ、タリー・ブランチャードらと対戦、ディック・スレーターが保持していたTV王座にも挑戦した。 1982年からはAWAに復帰し、WWF時代の盟友でもあるケン・パテラとブラック&ブルー・エクスプレス(''The Black & Blue Express'')なるタッグチームを結成。このときもヒーナン・ファミリーの一員として悪党AWA王者ニック・ボックウィンクルをサポートし、当時AWAで大ブレイクしていたハルク・ホーガンと軍団抗争を繰り広げた。同年はAWAとの提携ルートでオーストリアのCWAに遠征し、12月6日にグラーツにてオットー・ワンツのCWA世界ヘビー級王座に挑戦している。 その後も主力ヒールとして各地に参戦し、セントルイスのキール・オーディトリアムにも度々出場してマイク・ジョージやブルーザー・ブロディと対戦。1983年はJ・J・ディロンをマネージャーに迎えて久々にフロリダに登場、ローデス、マリガン、バリー・ウインダム、ロン・バスらと抗争を展開した。古巣のAWAでは、1985年4月21日にセントポールで開催されたビッグイベント "StarCage 1985" に、ヒールターンしたビル・ロビンソンと組んで出場している。 キャリア末期はサンアントニオのテキサス・オールスター・レスリングにて再びベビーフェイスとして活動、同じくフェイスのポジションにいたブルーザー・ブロディとも共闘し、ワンマン・ギャング、ハクソー・ヒギンズ、イライジャ・アキーム、カリーム・モハメッドなどと対戦した。1986年には再びオーストリアに遠征、8月11日にウィーンにてオットー・ワンツのCWA世界ヘビー級王座に再挑戦した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボビー・ダンカン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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