|
ボロジノの戦い(ボロジノのたたかい、, 1812年9月7日(ユリウス暦8月26日))は、1812年ロシア戦役(ナポレオン戦争)における戦闘の1つである。フランスではモスクワ川の戦い(モスクワがわのたたかい、)とも呼ばれる。 モスクワ西方のボロジノ〔現在の地図を見る上での注意点: このボロジノの南東約4キロメートルに同じボロジノと言う名前の村がある(便宜上、「ボロジノ新村」と表記する)。ボロジノ新村の方が集落として大きく、したがって目立つので要注意。ボロジノ新村は開駅(1870年)後、その周辺が発展したものでボロジノの戦い当時、村は無かった。 経緯度とウィキペディア露語版へのリンクを示す *ボロジノ *ボロジノ新村 〕近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世率いる大陸軍(フランス軍を中核とするヨーロッパ諸国連合軍)と、クトゥーゾフ率いるロシア軍との間で戦いが行われた。両軍ともに甚大な損害を出したものの決定的な勝利は得られず、ロシア軍の戦略的撤退によって戦いは終息した。 == 背景 == 1812年6月23日、ナポレオンのロシア遠征が始まった。ロシア軍総司令官バルクライは、焦土戦術を実行しつつ、数回にわたって防衛陣地の構築を試みたが、大陸軍の侵攻速度が余りにも早く、退却を余儀なくされた。バルクライは戦うべきだとする政治的圧力に押されて総司令官職を解任され、後任にクトゥーゾフが就任した。 だがクトゥーゾフも、大陸軍との早急な決戦で無益な犠牲を蒙ることの愚かさを理解していた。そこで、クトゥーゾフは大陸軍をモスクワ西方100kmまでひきつけ、スモレンスクからモスクワに至る街道上の町ボロジノで迎え撃つこととした。ロシア軍は9月3日から陣地構築を開始し、「ラエフスキー角面堡」と「」を構築して大陸軍を待ち構えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボロジノの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|