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ポルトガルの宗教 : ウィキペディア日本語版
ポルトガルの宗教[ぽるとがるのしゅうきょう]

ポルトガル共和国国教を制定していない。最も優勢なポルトガルの宗教は、ローマ・カトリックである。2011年の調査によると、ミサに参列し、定期的に秘跡を受けているのは人口の僅か19%のみだが、より多くの人々が洗礼を受ける事や結婚式を挙げる事、そしてを受ける事を望んでおり、ポルトガルの人口の91.4%がカトリック教徒だと答えている。
カトリック教会と国家ポルトガル第一共和政(1910年–1926年)の時期に正式に分離されていたが、政教分離は1976年のポルトガル共和国憲法で再び言及された。しかしながら、ローマ・カトリックの指針はポルトガルの社会や文化に於いて重要性を持ち続けている。多くのポルトガルの休日、祝日、そして伝統は殆どが異教起源ではあるが宗教的な意味合いを含んでいる。教育医療制度は長い間教会の役割であり、多くの場合では建築、橋、高速道路が開通した時にはいつも聖職者から祝福を受けていた。憲法上の政教分離によって教会と国家は正式に分離しているが、カトリック教会はそれでも一定の特権を保っている〔http://www.concordatwatch.eu/showtopic.php?org_id=1361&kb_header_id=4131〕。統計的には、宗教的実践は年齢が上がるにつれて増加傾向にあり、若年層は高齢者と比べて関心が低いという結果が出ている。
== 歴史 ==

ローマ帝国の大部分の属州の様に、ローマ以前の人々の宗教的信条と神々は、ローマ神話と入り混じって共存していた。ポルトガルの場合、主にプロト・ケルティック、或いはケルティックなローマ以前の宗教がルシタニ族の間で信仰されていた('を参照)。
ユダヤ人もローマ時代からこの地域で暮らしていたが、ローマ期以前にも存在しており、セファルディムの歴史に直接結び付いている。
ローマ帝国の属州ルシタニア(ドウロ川の南側の殆どを構成する)と(ドウロ川の北側)が、ローマ帝国の一部だった時に最初にキリスト教化された。この頃に、ブラカラ・アウグスタ(現在のブラガ)がサンティアゴ・デ・コンポステーラと並んで司教の最重要な中心部の一つになった。その前にキリスト教に改宗していたスエビ族西ゴート族といったゲルマン人が5世紀にイベリア半島に侵入した時に、キリスト教は強固になっていた。
初期の西ゴート族はアリウス派を信仰していたが、彼らは8世紀より後にローマカトリック教会の主流派に合流した。アリウス派とによる異端が6世紀に開催された会議で合流し、教会史に偉大な足跡を残した時、ブラガはこの時代の宗教史に於いて重要な役割を果たした。ブラガ司教はポルトガル首座主教の肩書きと、長きに渡って主張されていた全ヒスパニアの教会を凌駕する優越性を保持している。
ブラガはイベリア半島全体をキリスト教化する上で重要な役割を担った。(135年に死去)がこの街の最初の司教だと考えられる場合も在るが、ブラガの最初の司教パテルヌスが4世紀の終わり頃にこの街に住んでいたとされる〔Santi Beati 〕。5世紀初頭には、聖アウグスティヌスの友人であったブラガ出身のが、非常に重要な幾つかの神学的かつ歴史的書物を書いた。6世紀には、ブラガ司教だったスエビ族のがアリウス派からカトリックに改宗した。彼は同様にブラガの近くに修道院(en)を建てて、今では考古遺跡となっている。この時期に幾つかの公会議がブラガで開催され、この街の宗教的重要性を示している。
たとえ人口の大多数がによるキリスト教を続けていたとしても、711年のに始まり、アンダルスの時代にムーア人の支配を受けていた間にポルトガル南部での地位の低下に、キリスト教は直面した。しかしながら、ポルトガル北部では、少なくとも868年のポルトゥカーレ伯領の創設者によるレコンキスタ以来、キリスト教は特徴的実態としてのポルトガルを保持することに文化的かつ宗教的な結合を提供した。同じ理由で、キリスト教はムーア人に対して立ち上がって彼らを追い払おうとした人々のスローガンだった。それゆr、キリスト教とカトリック教会は、ポルトガル国家の建国に先立っていたポルトガルに影響を及ぼしていた。
最初のポルトガル国王ポルトガル王国建国者だったアフォンソ1世(1139年から1185年まで統治)の治世に、教会と国家は長期の有益な協力関係に統合された。ポルトガル王国をローマ教皇に承認させる為に、アフォンソはポルトガルを教皇の諸侯国であると宣言、1179年に教皇勅書『』でこれが承認された。国王はムーア人を南に追い遣る為に教会を役立つ見方に仕立てた。教会が彼の方針を支持した事に対し、アフォンソは征服した土地で広大な土地と特権を教会に与え、教会に十分に褒美を与えた。教会はポルトガルで最大の地主となって、その力は貴族騎士修道会、そして暫くすると国王とさえ同等になった。しかしアフォンソも同様に教会の優位性を認め――その優位性には浮き沈みが在ったが――その関係は維持された。
ポルトガル国家とカトリック教会との関係は基本的に良好で強固であったが、彼らの力関係は度々入れ替わった。13世紀と14世紀に於いて、教会はレコンキスタでの役割や初期ポルトガルの民族主義と緊密に同化する事から生じる富と権力の両方を欲しいままにした。暫くすると、国家に直面する教会の立場は、ポルトガル帝国の勢力拡大が宣教団を、征服地を植民地にする上での重要な代理人として利用されるまで劣勢に立たされた(例えば「コンゴ王国」に於けるカトリック教会の布教)。
15世紀まで一部のユダヤ人はポルトガルの政治的かつ経済的生活に於いて卓越した立場を占めていた。例えば、は国王アフォンソ5世の会計係だった。多くは同様にポルトガル文化に於いて活発な役割を果たして、彼らは外交官や商人としての評判を保った。この時までには、リスボンエヴォラは重要なユダヤ人共同体になっていた。1497年にスペインにて5年早く発生したユダヤ人強制改宗を反映して、ポルトガルはユダヤ人を追放し、僅かに残ったムーア人には強制改宗を行わせた。1536年には、教皇は信仰の純粋さを強制する為に国王ジョアン3世(1521年から1527年まで君臨)にを行う許可を与えた。それ以前に寛容であったポルトガルは、以後正統教義と非寛容が支配する様になった。とりわけイエズス会は全ての教育の場に配置された。
18世紀には反教会感情が強くなった。ポルトガル王国に於いて啓蒙専制主義改革を行った宰相ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ(1750年から1777年まで在任)は1759年にイエズス会を弾圧(enしてローマ聖座との関係を絶ち、教育は国家の統制下に置かれた。
ポンバルはその地位を排除され、彼の改革の多くは無効になったが、反教権主義はポルトガル社会で一定の影響力を残した。19世紀に入ると1821年に異端審問修道会が禁止され、教会はその財産の大半を失った。教会と国家との関係は19世紀後半に改善されたが、反教権主義の新しい波が1910年のポルトガル第一共和政成立と共に浮上して来た。教会の財産が接収され教育が世俗化されただけではなく、第一共和政は教会の鐘を鳴らす事、通りで聖職者の衣装を着る事や多くの宗教行事を行う事も禁止した。1914年の第一次世界大戦勃発と共に、ポルトガル第一共和政はそれをスペインによるポルトガル侵略とm他国によるポルトガル植民地の占領という二つの脅威を終わらせる事、内政に於いては体制に対して国民的コンセンサスを形成する事という、幾つかの目標を達成する為の唯一の機会だと見た。これらの国内の目標は対処されずに、軍部の政治意識は戦争の間に膨らんでおり、彼らの指導者は望んでいなかった戦争に向かわせた体制を許しておらず、保守的な軍隊には国家を支配していた「混沌」に対する「秩序」の最後の砦である様に見えた。1920年代半ばまでには、国内情勢も国際情勢も権威主義的解決法を望む風潮が強まり始めており、それによって強化された行政権力は政治的かつ社会的秩序を回復させられるかも知れないと認識された。を参照)。
ユダヤ人もローマ時代からこの地域で暮らしていたが、ローマ期以前にも存在しており、セファルディムの歴史に直接結び付いている。
ローマ帝国の属州ルシタニア(ドウロ川の南側の殆どを構成する)と(ドウロ川の北側)が、ローマ帝国の一部だった時に最初にキリスト教化された。この頃に、ブラカラ・アウグスタ(現在のブラガ)がサンティアゴ・デ・コンポステーラと並んで司教の最重要な中心部の一つになった。その前にキリスト教に改宗していたスエビ族西ゴート族といったゲルマン人が5世紀にイベリア半島に侵入した時に、キリスト教は強固になっていた。
初期の西ゴート族はアリウス派を信仰していたが、彼らは8世紀より後にローマカトリック教会の主流派に合流した。アリウス派とによる異端が6世紀に開催された会議で合流し、教会史に偉大な足跡を残した時、ブラガはこの時代の宗教史に於いて重要な役割を果たした。ブラガ司教はポルトガル首座主教の肩書きと、長きに渡って主張されていた全ヒスパニアの教会を凌駕する優越性を保持している。
ブラガはイベリア半島全体をキリスト教化する上で重要な役割を担った。(135年に死去)がこの街の最初の司教だと考えられる場合も在るが、ブラガの最初の司教パテルヌスが4世紀の終わり頃にこの街に住んでいたとされる〔Santi Beati 〕。5世紀初頭には、聖アウグスティヌスの友人であったブラガ出身のが、非常に重要な幾つかの神学的かつ歴史的書物を書いた。6世紀には、ブラガ司教だったスエビ族のがアリウス派からカトリックに改宗した。彼は同様にブラガの近くに修道院(en)を建てて、今では考古遺跡となっている。この時期に幾つかの公会議がブラガで開催され、この街の宗教的重要性を示している。
たとえ人口の大多数がによるキリスト教を続けていたとしても、711年のに始まり、アンダルスの時代にムーア人の支配を受けていた間にポルトガル南部での地位の低下に、キリスト教は直面した。しかしながら、ポルトガル北部では、少なくとも868年のポルトゥカーレ伯領の創設者によるレコンキスタ以来、キリスト教は特徴的実態としてのポルトガルを保持することに文化的かつ宗教的な結合を提供した。同じ理由で、キリスト教はムーア人に対して立ち上がって彼らを追い払おうとした人々のスローガンだった。それゆr、キリスト教とカトリック教会は、ポルトガル国家の建国に先立っていたポルトガルに影響を及ぼしていた。
最初のポルトガル国王ポルトガル王国建国者だったアフォンソ1世(1139年から1185年まで統治)の治世に、教会と国家は長期の有益な協力関係に統合された。ポルトガル王国をローマ教皇に承認させる為に、アフォンソはポルトガルを教皇の諸侯国であると宣言、1179年に教皇勅書『』でこれが承認された。国王はムーア人を南に追い遣る為に教会を役立つ見方に仕立てた。教会が彼の方針を支持した事に対し、アフォンソは征服した土地で広大な土地と特権を教会に与え、教会に十分に褒美を与えた。教会はポルトガルで最大の地主となって、その力は貴族騎士修道会、そして暫くすると国王とさえ同等になった。しかしアフォンソも同様に教会の優位性を認め――その優位性には浮き沈みが在ったが――その関係は維持された。
ポルトガル国家とカトリック教会との関係は基本的に良好で強固であったが、彼らの力関係は度々入れ替わった。13世紀と14世紀に於いて、教会はレコンキスタでの役割や初期ポルトガルの民族主義と緊密に同化する事から生じる富と権力の両方を欲しいままにした。暫くすると、国家に直面する教会の立場は、ポルトガル帝国の勢力拡大が宣教団を、征服地を植民地にする上での重要な代理人として利用されるまで劣勢に立たされた(例えば「コンゴ王国」に於けるカトリック教会の布教)。
15世紀まで一部のユダヤ人はポルトガルの政治的かつ経済的生活に於いて卓越した立場を占めていた。例えば、は国王アフォンソ5世の会計係だった。多くは同様にポルトガル文化に於いて活発な役割を果たして、彼らは外交官や商人としての評判を保った。この時までには、リスボンエヴォラは重要なユダヤ人共同体になっていた。1497年にスペインにて5年早く発生したユダヤ人強制改宗を反映して、ポルトガルはユダヤ人を追放し、僅かに残ったムーア人には強制改宗を行わせた。1536年には、教皇は信仰の純粋さを強制する為に国王ジョアン3世(1521年から1527年まで君臨)にを行う許可を与えた。それ以前に寛容であったポルトガルは、以後正統教義と非寛容が支配する様になった。とりわけイエズス会は全ての教育の場に配置された。
18世紀には反教会感情が強くなった。ポルトガル王国に於いて啓蒙専制主義改革を行った宰相ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ(1750年から1777年まで在任)は1759年にイエズス会を弾圧(enしてローマ聖座との関係を絶ち、教育は国家の統制下に置かれた。
ポンバルはその地位を排除され、彼の改革の多くは無効になったが、反教権主義はポルトガル社会で一定の影響力を残した。19世紀に入ると1821年に異端審問修道会が禁止され、教会はその財産の大半を失った。教会と国家との関係は19世紀後半に改善されたが、反教権主義の新しい波が1910年のポルトガル第一共和政成立と共に浮上して来た。教会の財産が接収され教育が世俗化されただけではなく、第一共和政は教会の鐘を鳴らす事、通りで聖職者の衣装を着る事や多くの宗教行事を行う事も禁止した。1914年の第一次世界大戦勃発と共に、ポルトガル第一共和政はそれをスペインによるポルトガル侵略とm他国によるポルトガル植民地の占領という二つの脅威を終わらせる事、内政に於いては体制に対して国民的コンセンサスを形成する事という、幾つかの目標を達成する為の唯一の機会だと見た。これらの国内の目標は対処されずに、軍部の政治意識は戦争の間に膨らんでおり、彼らの指導者は望んでいなかった戦争に向かわせた体制を許しておらず、保守的な軍隊には国家を支配していた「混沌」に対する「秩序」の最後の砦である様に見えた。1920年代半ばまでには、国内情勢も国際情勢も権威主義的解決法を望む風潮が強まり始めており、それによって強化された行政権力は政治的かつ社会的秩序を回復させられるかも知れないと認識された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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