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テュロスのポルピュリオス
テュロスのポルピュリオス(、234年 - 305年)はネオプラトニズムの哲学者。テュロス出身〔For Porphyry's dates, place of birth and philosophical school, see Barker 2003. Sarton 1936, pp. 429-430, identifies Transjordania as Porphyry's place of birth.〕。彼は師プロティノスの唯一の著作『エンネアデス』を編纂・発表した。彼は自身の著作も多く残していてテーマも多岐に渡っている〔Topics range from music to Homer to vegetarianism. For a comprehensive list see Beutler (1894-1980).〕。彼の『エイサゴーゲー』は論理と哲学の手引きであり〔Barnes 2003, p. xv clarifies that the ''Isagoge'' " not an ''Introduction to the Categories'', rather "it was an introduction to the study of logic, was... an introduction to philosophy--and hence accidentally an introduction to the ''Categories''."〕、そのラテン語訳は中世を通じて論理学の標準的な教科書となった〔See Barnes 2003, p. ix.〕。さらに、いくつかの彼の著作を通じて、特に『託宣からの哲学』、『反キリスト教論』で、彼は多数の初期キリスト教徒との論争に携わっていて〔See Digeser 1998.〕、また、彼の『ユークリッド原論』に対する注釈はアレクサンドリアのパッポスに典拠として利用されている〔See O'Connor and Robertson, "Porphyry Malchus" .〕。 == 伝記的情報 == ポルピュリオスの両親はフェニキア人で、彼はテュロスで産まれて「マルクス(王)」と名付けられた〔For connotations of West Semitic MLK, see Moloch; compare theophoric names like Abimelech.〕。彼はアテナイでカッシオス・ロンギノスに師事し、彼にポルピュリオス(紫色の服を着ている)という名前を与えられた。紫色の服とは皇帝のローブを暗に言う物であった。ロンギヌスのもとで彼は文法と修辞を学んだ。262年にはローマへ行き、プロティノスの名声に魅せられ、6年間ネオプラトニズムを学ぶのに専心した。その間彼は自らの食事を厳しく制限した。このため彼は気が滅入ってきて自殺を考えるようになった。〔Eunapius, ''Lives of the Philosophers''〕そこでプロティノスの助言に従ってシチリアへ行き、5年間かけて体調を回復した。その後ローマにもどり、哲学の講義を行うとともにプロティノスの著作の編纂を完了した(その頃プロティノスは既に世を去っていた)。またプロティノスの伝記を書いた。 カルキスのイアンブリコスは古代のネオプラトニズムの著作でポルピュリオスの弟子として言及されているが、おそらくポルピュリオスの次の世代の主要な人物であることを意味しているにすぎないだろう。ポルピュリオスとイアンブリコスはテウルギー(呪術)の問題で公然と意見を異にしていた。ポルピュリオスは後年、7歳の子供を抱えた寡婦で熱狂的な哲学徒のマルセラと結婚した。それ以上のことはほとんど知られておらず、彼が死んだ日もわかっていない。
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Porphyry (philosopher) 」があります。
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