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ポロ・グラウンズ(''Polo Grounds'')は、アメリカのニューヨーク州にかつてあったスタジアム。野球場としてはMLBのニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)が1883年から1957年まで、ニューヨーク・ヤンキースが1913年から1922年まで、ニューヨーク・メッツが1962年から1963年まで本拠地として使用していた。アメフトでは、NFLのニューヨーク・ジャイアンツが1925年から1955年まで、AFL(現在のNFL・AFC)のニューヨーク・ジェッツが1960年から1963年までホーム球場としていた。 == 球場の歴史 == 1889年と1890年の2年間、「ニューヨーク・ジャイアンツ」という野球チームは二つ存在していた。プレイヤーズ・リーグのジャイアンツはブラザーフッド・パークを、ナショナル・リーグのジャイアンツはポロ・グラウンズを本拠地にしていた。しかしプレイヤーズ・リーグのジャイアンツがシーズン終了後解散に追い込まれてしまう。 ナショナル・リーグのジャイアンツは1891年シーズンからブラザーフッド・パークに移転、球場名をポロ・グラウンズに改称した。しかしこの球場は椅子が木製だったため、1911年4月14日に火事が発生し全焼してしまった。 その後、ジャイアンツは、ニューヨーク・ハイランダーズ(現ニューヨーク・ヤンキース)の本拠地球場ヒルトップ・パークを借りていたが、同年6月28日、まだ完成していないにもかかわらず、新ポロ・グラウンズに移転した。1913年にはヤンキースもポロ・グラウンズに移転した。 ポロ・グラウンズのフィールドは特殊な形状(その名の通り、本来はポロ競技用)をしていて、センターまでが異様に長いが、両ポールまでは短くなっており、ポップフライでもポール際なら本塁打になることが多かった。この恩恵を受けたのがベーブ・ルースで、1920年シーズンにヤンキースに移籍すると54本塁打を放つ大活躍。ルースの人気を受けヤンキースもメジャー史上初の年間観客動員100万人を突破した。 ジャイアンツのジョン・マグロー監督はこれに腹を立て、ヤンキースに「1921年以降、ポロ・グラウンズの使用を禁じる」と通告した。これに対してヤンキースはブロンクス地区に右翼までの距離が極端に短いヤンキー・スタジアムを建設し、ルースはさらにホームランを量産した。 その後1925年にはNFLのニューヨーク・ジャイアンツがこの球場を本拠地にし、ポロ・グラウンズは野球とアメフトの兼用となった(1955年まで)。 しかし50年代に入ると野球のジャイアンツは成績、観客動員ともに落ち込み、球団幹部はニューヨークからの脱出を考えるようになる。そこにドジャースから「西海岸に一緒に移転しないか」と誘いがかかった。ドジャースは西海岸に移転する際、自分たちだけが移転したら移動が大変だと考え、もう1球団と一緒に西海岸へ移転する構想を持っていた。ジャイアンツはこの計画に乗り、サンフランシスコへの移転を決断。1957年を最後にポロ・グラウンズを去った。 1960年から、AFLのニューヨーク・タイタンズ(1963年からジェッツにチーム名変更)がここを本拠地にした(1963年まで)。 1962年には、MLBでニューヨークに新球団メッツが誕生。62年と63年はポロ・グラウンズを本拠地にし、90万人近い観客動員を記録した。 1925年に誕生した阪神甲子園球場のモデルにもなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポロ・グラウンズ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Polo Grounds 」があります。 スポンサード リンク
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