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ポロツク公国()はキエフルーシ時代に、現ベラルーシのポロツク(ベラルーシ語ではポーラツク)を首都として成立した国家である。キエフ大公国から最初に分離した公国であり、しばらく後に事実上の独立を果たした。公国の歴史を概括すると、前期はキエフ大公国などのルーシ諸国と、中期にはリヴォニア帯剣騎士団などの十字軍勢力と争い、最終的にはリトアニア大公国に組み込まれた。 ==ポロツク公国の歴史== ===公国の形成=== ポロツクに関する古い記録には、5世紀ごろの「西ドヴィナ川流域のヴァイキングの大きな都市」としての記述がある〔Орлов, В. А.・Саганович, Г.,''Десять веков белорусской истории (862-1818): События. Даты, Иллюстрации. '' — Вильня: Наша Будучыня, 2001. 〕。またサクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』には、「フロド1世と子のハディンガが、策謀によってポロツクの王ヴェスパシを殺した。都市の強固さにより征服できなかったからである。(注:三名ともロシア語表記の日本語音写)」という主旨の記述がある〔Джаксон Т. Н,Austr í görðum. Древнерусские топонимы в древнескандинавских источниках. — М.: Языки славянской культуры, 2001.〕。ルーシの記述では、『原初年代記』(ラヴレンチー写本)における862年の記述が初出である〔Лаврентьевский список 〕。なお『ニコン年代記』(en)によれば、アスコルドが872年にポロツクを占領している。 10世紀後半には、ポロツクには独立した支配者・ログヴォロド(en)がいたが、980年にノヴゴロド公ウラジーミル(後のキエフ大公・ウラジーミル1世)はポロツクを破壊し、ログヴォロドを殺し、ログヴォロドの娘のログネダを強制的に妻にした上にポロツクを併合した。987年ごろ、ログネダはウラジーミル1世を暗殺しようとするが失敗し、ウラジーミル1世は自分とログネダとの間の子・イジャスラフをポロツクに置いた。(このイジャスラフは後の歴代ポロツク公の祖先となる。)初めのうち数年は、ウラジーミル1世が建設したイジャスラヴリ(現ベラルーシ・ザスラーウエ)に首都があったが、しばらく後にイジャスラフがポロタ川左岸の要害の地にポロツクを再建し、首都を移転した。なお、おそらく摂政にログネダが就いていたと考えられている。 992年、ポロツクに正教の主教座が置かれた〔『歴史の狭間のベラルーシ』9頁〕。アイスランドのサガによれば、ポロツクは1000年ごろにアイスランドのヴァイキングのキリスト教徒・トルヴァリドから洗礼を受けた。サガによれば、トルヴァリドはビザンツ皇帝バシレイオス2世から「東バルトのルーシの都市」に対する全権大使に任ずる旨の勅書を与えられ、ルーシの地に来たとされている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポロツク公国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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