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ポーランド継承戦争[ぽーらんどけいしょうせんそう]
ポーランド継承戦争(ポーランドけいしょうせんそう、ポーランド語:Wojna o sukcesję polską, ドイツ語:Polnischer Thronfolgekrieg, 1733年 - 1735年)は、ポーランド王国の王位継承をめぐって勃発した18世紀ヨーロッパの戦争。 == 原因 == 1733年にポーランド王アウグスト2世(兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世)が死去すると、ポーランド貴族(シュラフタ)出身のスタニスワフ・レシチニスキが王位を請求し、娘婿にあたるフランス王ルイ15世はこれを支持した。スタニスワフは大北方戦争中の1704年から1709年まで、スウェーデンによって傀儡のポーランド王として擁立されていた(スタニスワフ1世)。しかし、アウグスト2世の息子であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世もまた王位を請求し、神聖ローマ皇帝カール6世やロシアのアンナ女帝の支持を得ていた。 ポーランド議会(セイム)ではスタニスワフがシュラフタ多数の賛成を得て即位したが、一部の反対派はザクセン選帝侯をポーランド王アウグスト3世と宣言した。このため、ポーランドの内戦は関係国を巻き込んで戦争へと発展した。 イギリスは17世紀のウィリアム3世以来、反仏政策を推進し、欧州での戦争に介入・参戦してきたが、この時期はロバート・ウォルポール首相が「国民的重商主義」の見地から平和政策を進めていたため、1731年のウィーン条約でオーストリアと同盟を結んだにもかかわらず、参戦しなかった〔大野(1975)pp.468-469〕〔これを「ウォルポールの平和」と呼んでいる。なお、ウォルポールは王后に対し、ヨーロッパでは5万の兵の生命が奪われたのに対し、イギリスはひとりも死んでいないと報告している。大野(1975)p.469〕。フランスもイギリスの参戦を防ぐべく、イギリスに近いオーストリア領ネーデルラントに侵攻しなかった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポーランド継承戦争」の詳細全文を読む
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