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ポール・ジャクレー ポール・ジャクレー(Paul Jacoulet、1896年-1960年3月9日)は、フランスの版画家。 == 来歴 == 1896年、パリに生まれる。父はフレデリック・ジャクレーといった。1897年に父親が東京外国語大学のフランス語講師として来日する。その2年後、4歳の時に母と共にお雇い外国人の息子として来日する。日本文化を学び、日本語、書道、音楽、ダンスなどを習い、10代の前半から黒田清輝と久米桂一郎からデッサン及び油絵を学び、、1907年には浮世絵の流れをくむ池田輝方及び池田蕉園に師事しており、日本画を習得、若礼と号している。「若礼」という印章がある肉筆浮世絵や数多い喜多川歌麿作品などの複写が残されているのは、彼が日本画から出発したことを証明している。油絵及び日本画を学習しジャクレーは、ソルボンヌ大学を出た後、再び日本に戻り、江戸の情緒を残した東京の下町を愛し、義太夫の語りにも玄人はだしの腕前を発揮した。とりわけ浮世絵に強く魅せられ、日本画に親しんだ。ジャクレーは浮世絵と同じ技法による伝統的木版画を制作しており、彼の作品には、和の心が感じられ、真っ黒な瞳が印象的な南洋諸島、日本、韓国、中国の女性風俗を描いている。それらは平面的な画面に醸し出されたフランスの香りと和風の佇まいが面白い作品となっている。 1927年頃からは、身近な友人や知人たちをモデルに、鉛筆による円熟した線描と透明感あふれる豊かな色彩を特徴とする水彩画を描くようになった。1930年以降は、毎年、ミクロネシアなど南洋諸島へ旅行、マリアナ、カロリン、セレベス、フィジー諸島といった現地の島々の老若男女を水彩画に描いている。後に、それらを版画化している。1931年に藤懸静也の勧めにより木版画の制作を始める。1933年には自ら若礼(ジャクレー)版画研究所を設立して、彫師、摺師と共同生活をしながら木版画の制作を続けている、翌1934年12月、加藤版画研究所から、初めての新版画「虹」シリーズ (1.赤、2.橙、3.黄、4.緑、5.青、6.藍、7.菫)を発表した。なお、これらは山岸主計が彫っていた。1936年には『世界風俗版画集第一輯』を彫師、摺師とのコラボレーションによって発表、大きな反響を呼んだ。ジャクレーの作品には、彫師、摺師の名前が一緒に記されており、彫師は前田謙太郎、摺師は内川又四郎といった。また、戦前の作品は内川の父・藤井周之助という人物が大半を手掛けている。これ以降、没するまでに総制作点数166点の版画を残した。ジャクレーの木版画は国内外の欧米人を主な顧客として頒布会形式で売られた。1942年に技法上の贅を尽くした5点連作の「中国宮殿風俗」を版行した後は、第二次世界大戦のために制作の中断を余儀なくされたが、1945年の第2次世界大戦後、長野県軽井沢町に疎開して作画を続け、1960年にこの地で糖尿病により死去した。 戦後、駐留米軍関係者たちが彼の作品を競って買い求めており、日米の各地において回顧展が開催されている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポール・ジャクレー」の詳細全文を読む
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