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マイク・スウィーニー(Michael John "Mike" Sweeney, 1973年7月22日 - )は、MLBの元指名打者、一塁手。アメリカ合衆国カリフォルニア州オレンジ郡出身。右投右打。 デビューから2007年までロイヤルズ一筋で、チームの看板選手として活躍した。 == 略歴 == 高校時代から強打の捕手として活躍し、1991年、ドラフト10巡目でカンザスシティ・ロイヤルズに捕手として入団。 9月14日にメジャーデビュー。結局その年は4試合のみの出場だったが、シーズン最終戦で初安打を放っている。 はマイナーリーグからのスタートとなったが、オールスター明けに再びメジャーに昇格。7月18日に捕手として初のスタメン出場を果たし、8月12日のマリナーズ戦でジェイミー・モイヤーから初本塁打を放った。最終的に打率.279、4本塁打、24打点とまずまずの成績を残した。 は開幕ロースターから外れ、メジャーとマイナーを往復する時期が続いた。 までは強打の捕手マイク・マクファーレンが在籍していたためレギュラーを確保することが出来ずに、何回かトレードされそうにもなった。 開花できずにいたスウィーニーだったがの5月に正一塁手のジェフ・キングが突如引退を表明したため、その穴埋めとして一塁手へコンバートされた。守備の負担が軽くなったことで打撃成績も上昇し、7月18日から8月13日にかけて球団歴代3位の25試合連続ヒットを記録。最終的に打率.322、22本塁打、102打点とチームトップの成績を残し、チームの中心選手となった。 も好調を維持し、206安打、打率.333、29本塁打、球団新記録となる144打点(リーグ2位)といずれも前年以上の成績を残すと共に、その年のオールスターにも初選出された。 は6月に打率.392、11本塁打、29打点を記録し、プレイヤー・オブ・ザ・マンスに初選出された。8月10日のデトロイト・タイガース戦ではマウンドのジェフ・ウィーバーから吐きかけられた言葉に激怒してウィーバーに殴りかかる乱闘騒ぎを起こし、自身初の退場処分を受けている。 は自己最高となる打率.340(リーグ2位)を記録。シーズン終了間際まで首位打者を争っていたが、最後の4試合で16打数2安打に終わり、マニー・ラミレス(.349)にタイトルを奪われた。 まで4年連続でオールスターにも選出された。しかしこの頃から腰の故障に悩まされ、シーズンを通しての出場が困難となった。それでも2003年からにかけては打率.300前後、20本塁打前後、80打点前後の成績を残している。 は開幕直後から故障に悩まされ、5月初旬から8月初旬までの3カ月ほど戦線を離れた。復帰後は調子を取り戻したが、終わってみれば60試合の出場で打率.258、8本塁打、33打点という成績だった。もシーズン半ばで故障し、打率.260、7本塁打、38打点と満足のいく成績を残せなかった。 はオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結び、招待選手としてキャンプに参加したが、3月24日に正式契約しロースター枠に入った。指名打者として左打ちのジャック・カストと併用される予定であった。5月19日に左ヒザ痛のためDL入り。左ヒザの軟骨に穴を開ける手術を勧められたものの、復帰まで約半年間かかるために拒否。そのため、内視鏡手術を受ける。9月4日に戦線復帰を果たした。しかし、同年9月9日に戦力外通告を受けた。9月14日には、キャットフィッシュ・ハンター賞を受賞。 1月29日、アスレチックス時代のベンチコーチだったドン・ワカマツが監督に就任したシアトル・マリナーズとマイナー契約。開幕ロースター入りし、5月3日のアスレチックス戦で通算200号本塁打を達成した。 2011年3月25日、現役引退を表明。翌3月26日に古巣ロイヤルズと1日契約を結び、引退セレモニーを行った。また、3月31日のシーズン開幕戦では始球式を務めた。(この時の捕手は同じくロイヤルズの看板選手だったジョージ・ブレット) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マイク・スウィーニー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mike Sweeney 」があります。 スポンサード リンク
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