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マイク・ボイト : ウィキペディア日本語版
マイク・ボイト

マイク・ボイト(Michael ("Mike") K. Boit、1949年6月1日- )は、ケニアの陸上競技選手。1972年ミュンヘンオリンピックの銅メダリストである。
== 経歴 ==
ボイトは、ケニア西部リフトバレー州ケイヨ県イテン出身。1969年に800mでケニアの高校チャンピオンとなる。卒業後はケニアッタ大学に進学。大学を卒業した1972年にはミュンヘンオリンピックに出場し、800mでアメリカデーブ・ウォットルソ連エフゲニー・アルザノフに次いで3位となり銅メダルを獲得した。さらに、1500mにも出場。ケニアの伝説的なランナーであるキプチョゲ・ケイノも出場していたこのレースでは、惜しくも4位となり2個目のメダルを手にすることはできなかった。
ボイトは、4年後のモントリオールオリンピックへは、ラグビー南アフリカ共和国と交流したニュージーランドがオリンピックに出場することに対して、ケニアをはじめとしたアフリカ諸国がボイコットしたことにより、出場することができなかった。この時『トラックの色も知らないお偉方が、我々からオリンピック出場の機会を奪ってしまった。怖ろしいことだ。』とボイコットを批判するコメントを出した。
それでも、ボイトは1970年代を通じて世界のトップランナーであり続けた。1974年のコモンウェルスゲームズ2位、1977年のワールドカップの800mではモントリオールオリンピック優勝のアルベルト・ファントレナと大接戦を演じ2位。100mのS・ウィリアムス、長距離のミルツ・イフターとともにモントリオール不出場組の存在感を示した。1978年のコモンウェルスゲームズでは800mで優勝。1500mで3位。1979年の第1回アフリカ選手権でも1500mで優勝を果たしている。
しかし、1980年のモスクワオリンピックは、今度はソ連のアフガニスタン侵攻に対しケニアがボイコットしたため、ボイトは再びオリンピックの舞台に立つことはできなかった。ボイトはその後も競技を続け、1990年に現役を引退。引退後は国際陸連の組織の一員として活動。現在ではケニヤッタ大学の体育学の教授の職にある。
ケニア初の冬季オリンピック選手として1998年の長野オリンピックのクロスカントリスキーに出場したフィリップ・ボイトは、彼の甥にあたる選手である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マイク・ボイト」の詳細全文を読む



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