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イゴール・ボディック(Igor Vodik)ことディック・ガルザ(Dick Garza、本名:Richard Joseph Garza、1931年7月16日 - 2002年1月7日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州ディアボーン出身のポーランド系アメリカ人。 マイティ・イゴール(Mighty Igor)のリングネームでも活躍し、ポーランド移民の肉体労働者をギミックとしたベビーフェイスの怪力ファイターとして子供たちの人気を集めた。第16代AWA世界ヘビー級王者。 == 来歴 == 10代の頃からボディビルディングとウエイトリフティングで活躍し、ボディビルでは1954年に "Mr. Michigan" に選ばれた〔。デトロイトのジムで働いていた際、彼に因縁をつけてきたプロレスラーのブルート・バーナードをノックアウト、その噂を聞きつけたプロモーターのバート・ルビーにスカウトされ、プロレス業界にデビューしたという〔。 デビュー後の1950年代後半から1960年代初頭にかけては本名のディック・ガルザをリングネームに、ルビーの主宰する地元ミシガンのウルヴァリン・レスリングやロサンゼルスのWWAなどで、アスリート系のベビーフェイスとして活動。ウルヴァリン・レスリングでは1964年2月11日、因縁のブルート・バーナードからミシガン・ヘビー級王座を奪取している。 その後AWAに参戦、バーン・ガニアの提案でポーランド移民の肉体労働者をイメージしたキャラクターに変身し、イゴール・ボディックと改名する。1965年5月15日、ネブラスカ州オマハにてマッドドッグ・バションを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得〔。1週間後の5月22日にバションに奪還され短命王者で終わったものの、その名をマット界に知らしめた。以後もAWAではドン・ジャーディンを相手にネブラスカ・ヘビー級王座を争い、1967年12月9日にはボブ・オートンを下しAWAミッドウエスト・ヘビー級王座にも戴冠している。1968年8月22日にはドクターXことディック "ザ・デストロイヤー" ベイヤーのAWA世界ヘビー級王座に挑戦した。 1971年7月、ジャック・ブリスコ、クリス・マルコフ、ジョージ・スティール、ビクター・リベラらと共に、グレート・イゴールの名義で日本プロレスに来日。この日本遠征では真価を発揮できなかったものの、以降もイワン・カルミコフ(エドワード・ブルース)をマネージャーに、マイティ・イゴールのギミックで各地を転戦。車を持ち上げ、チェーンを引きちぎり、頭でブロックを叩き割るなどの怪力パフォーマンスを行う一方、玩具やポーリッシュ・ソーセージを持って入場し、それをファンに分け与えるなど、「気は優しくて力持ち」を体現したような純真でコミカルなキャラクター設定のもと、子供たちの声援を浴びた〔。 1970年代中盤は古巣デトロイトのNWAビッグタイム・レスリングにてザ・シークと流血戦を展開。ディック・ザ・ブルーザーが主宰していたインディアナポリスのWWAでは、オックス・ベーカーが保持していたWWA世界ヘビー級王座に挑戦した。ミル・マスカラスを世界王者にアメリカ北東部で旗揚げされたIWAにも出場し、ブルドッグ・ブラワーやイワン・コロフと対戦。1977年からはジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に参戦、マスクド・スーパースターと抗争を繰り広げた〔。その後はデトロイトに戻り、1980年4月18日にシークからUSヘビー級王座を奪取。1981年はNWAフロリダ地区に登場、若手ヒール時代のハルク・ホーガンとも再三対戦した。 1980年代中盤からは、カルロス・コロンの主宰するプエルトリコのWWCを主戦場に活動。ブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シンなどの大物ヒールと対戦した(シンとの試合は、日本で発売されたカリビアン・プロレスの映像ソフトにも収録されている)。1986年11月29日にはアル・ペレスを破りWWCプエルトリカン・ヘビー級王座を獲得、これが最後のタイトル戴冠となり、翌1987年6月6日にカリーム・モハメッドに敗れるまで保持した。 2002年1月7日、デトロイトの病院にて心臓発作のため死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イゴール・ボディック」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mighty Igor 」があります。 スポンサード リンク
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