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マインデルト・ホッベマ : ウィキペディア日本語版
メインデルト・ホッベマ

メインデルト・ホッベマMeindert Hobbema, 1638年10月31日 - 1709年12月7日)は、17世紀のいわゆるオランダの黄金時代に活躍した風景画家で、ヤーコプ・ファン・ロイスダールの後継者として位置付けられている。マインデルト・ホッベマと表記されることもある。
ホッベマの経歴には不明な点が多く、絵にあるサインの年代から考えると彼の活動は、1650年から89年頃まで続いたと考えられるが矛盾がある。ブルーデル・コレクション(Bredel Collection)にある''A Wooded Stream''と呼ばれる作品は1650年のものであって、フォード・コレクションにある『木々の下にある小屋』は、1652年である。それらの絵のカンバスにはホッベマの名前は見られないが、ホッベマのもっとも初期の作品だとすると12歳ないし14歳で描いたことになり、その画家が1638年生まれなどとはありえないことである。
この時期についての矛盾は以下の経緯によって起こったと考えられる。ホッベマの絵をロイスダールの作品として売ることにより利益を得ることが行われた。ホッベマの才能はこのようなことを通して通常とは逆のパターンで認められるようになった。ホッベマの才能が認識されると、それまでとは反対のことが起こりホッベマの名前を利用したり架空の日付をつけたりと詐欺のようなことが起こるようになったのである。経験豊かな目で鑑定すればロンドンやロッテルダム、グローブナー(Grosvenor)やvan der Hoopコレクションのギャラリーに飾られたよく知られているホッベマの絵のサインに違いがあることがわかる。ホッベマのものとされる絵の日付に疑問があって記録や年譜と照合しようとするならホッベマの生涯に起こった次に述べるような事実を知っておかなければならない。
==生涯==
ホッベマは、1638年にアムステルダムにおいて生を受けた。
前述のように経歴には不明な点が多いが、30歳のときにアムステルダムの旧教会〔アムステルダム最古の教区教会で、1306年ユトレヒト大司教の命によって建設された。現在はアムステルダムの風俗街である飾り窓(De Wallen)地区の一角にある。〕でエルチェ・ヴィンク(Eeltije Vinck Gorcum)という女性と結婚した。その結婚式には新婦の兄であるコルネリウス・ヴィンクとヤコープ・ファン・ロイスダールが出席していた。このことからホッベマとロイスダールという偉大な風景画家同士が友情の絆で結ばれていたと仮定することができる。少なくとも1660年の文書でホッベマがロイスダールのもとで数年間修行していたとロイスダール自身が述べているように、ホッベマの初期の作品は師の影響を濃厚に受けている様子が窺え、後述するように見分けがつかないほどである。
ホッベマは1668年にアムステルダムの計量官〔詳細にいえば、度量衡の検査にかかわる役人のうち、アムステルダムの市長のお声かかりでワインの収税を行なう職に就いた。高給であったため、画業をまともにおこなわなくてもよくなっていた時期があったようである(A.ベイリー/木下訳2002,p.59)。〕に任命され、同年から1673年の間に4人の子どもをもうけている。1704年に妻のエルチェ・ヴィンクは亡くなりアムステルダムのレイデン墓地の平民区域〔英語版原文pauper section.直訳は「貧民区域」。教会の墓苑が財産や身分ごとに区分されていることを示す?〕に葬られた。
ホッベマ自身は1709年の12月まで生きた。その月14日にアムステルダムのWesterkerk墓地の平民区域に埋葬された。
ホッベマ夫妻はRozengracheで夫婦生活を送った。そこはレンブラントの住んでいたところとそれほど離れてはいなかった。レンブラントはそこで貧しい後半生を送っていた。レンブラントとフランス・ハルス、ヤコプ・ファン・ロイスダール、ホッベマはそういった点で似ている。彼の死はみじめで労苦の割には報われないものであった。おそらく彼らの業績から考えてつりあわないものであった。ホッベマとロイスダールは後世からみてオランダ風景画の最終段階と考えられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Meindert Hobbema 」があります。



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