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マイ瑰聖母聖殿司教座堂 : ウィキペディア日本語版
マイ瑰聖母聖殿司教座堂[まいかいせいぼせいでんしきょうざどう]

(まいかいせいぼせいでんしきょうざどう、、)は前金天主堂とも呼ばれ、台湾高雄市愛河橋のたもとにあるカトリック教会およびその聖堂。通称は。の咸豊九年(1859年)に政府が外国人に対し中国での宣教を許可してから、カトリックが台湾に建造した初の聖堂であり〔〕〔高雄市苓雅區公所 〕、近代の台湾カトリック教会の発祥地でもある。現在はカトリック高雄教区カテドラル司教座聖堂)となっている。''(まいかいせいぼせいでんしきょうざどう、、)は前金天主堂とも呼ばれ、台湾高雄市愛河橋のたもとにあるカトリック教会およびその聖堂。通称はの咸豊九年(1859年)に政府が外国人に対し中国での宣教を許可してから、カトリックが台湾に建造した初の聖堂であり〔〕〔高雄市苓雅區公所 〕、近代の台湾カトリック教会の発祥地でもある。現在はカトリック高雄教区カテドラル司教座聖堂)となっている。''。の咸豊九年(1859年)に政府が外国人に対し中国での宣教を許可してから、カトリックが台湾に建造した初の聖堂であり〔〕〔高雄市苓雅區公所 〕、近代の台湾カトリック教会の発祥地でもある。現在はカトリック高雄教区カテドラル司教座聖堂)となっている。
==沿革==

* 1858年 - 清国天津条約に調印し、禁教を解除。スペイン植民地フィリピンドミニコ会は()と洪保禄の2人の神父を台灣へ布教に派遣。
* 1859年 - 5月15日、ドミニコ会神父郭徳剛と洪保禄、とほか4人の中国人宣教師、楊篤、蔡向、厳超および瑞斌が、アモイから出航し、5月18日に打狗港に到達。同年12月、龍銀62円で当時は海域に面していた現在地である前金(ただし行政区分としては、前金区ではなく、隣の苓雅区に位置する)の土地を購入し、茅葺きの臨時の布教所を建設。
* 1860年 - 日干しレンガで布教所を改築し、「聖母堂」と命名。
* 1862年 - 1回目の改築、赤レンガとおよび三和土(たたきつち)で聖堂を再改築。
* 1863年 - 聖母堂が完工し、スペインロザリオ管区から聖母像を迎えて安置し、「」と改称。
* 1874年 - 船政大臣沈葆楨欽差大臣の使命を受け、台湾に来て海防の取り扱いと各国の商業、貿易と海事の処理を兼ねたが、当時の万金小教区の神父から清朝廷に布教許可の奏上を受託。同治帝は奏上を受け入れ、願いの通り許可を与え、「奉旨」と「天主堂」の2つの聖石は沈葆禎の親筆をもって石に彫刻。
* 1875年 - 沈葆禎が再び台湾に来て、ロザリオの聖母聖堂および万巒郷万金天主堂に聖石を下賜。
* 1928年 - 李安斯師は2度目の聖堂改築計画を立案。2年後に正式に施工。旧聖堂を取り壊す際に「奉旨」碑は土中に埋没。
* 1948年 - ドミニコ会士 師が高雄知牧に任じられ、本聖堂に駐在する。
* 1961年 - 3月、高雄知牧区は教区に昇格し、鄭天祥師が初代司教に選任。本聖堂を司教座堂に指定し、台湾で最大のカテドラルとなる。
* 1972年 - 信徒の寄付により聖母亭を建てる基礎工事をした際、「奉旨」の碑を発掘。
* 1995年 - 教皇庁は本聖堂をバシリカに挙げる。同年7月1日から大規模な補修工事を開始。
* 1998年 - 落成式典およびバシリカ昇格式典を挙行。
* 2001年 - 高雄歴史建築十景に選定。また、行政院文化建設委員会主催の全国「台湾歴史建築百景」で第1位に選定。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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