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マウロ・フォルギエリ : ウィキペディア日本語版
マウロ・フォルギエリ

マウロ・フォルギエリ(''Mauro Forghieri'' 、1935年1月13日 - )はイタリアモデナ出身のレーシングカーおよびエンジン設計者。
スクーデリア・フェラーリランボルギーニの元チーフデザイナーとして知られる。
== 略歴 ==

=== フェラーリ時代 ===

ボローニャ大学で機械工学の学位を取得。教職に就いたのち、父の伝手でエンツォ・フェラーリと面談し1959年にフェラーリに入社した。カルロ・キティの下で働き、1961年にキティらチーム主要メンバーが離脱すると26歳の若さでレース部門の開発責任者となった。処女作となる「158F1」で1964年のドライバーズ(ジョン・サーティース)、コンストラクターズ両タイトルを獲得した。
1970年には低重心の12気筒水平対向エンジンを開発。熟成に手間どり一時的に開発チームから外されたこともあったが、次第に戦闘力を発揮するようになる。1975年の312T(Tは横置き(Trasversale)の頭文字)では横置き式ギアボックスを採用し、操縦性能を向上させた。312Tシリーズはグラウンド・エフェクト・カーにまで発展しながら3度のドライバーズチャンピオン(1975年、1977年のニキ・ラウダ、1979年のジョディ・シェクター)と4度のコンストラクターズチャンピオン(1975年、1976年、1977年、1979年)を獲得した。
312Tシリーズの成功にはエンジニア的な素養をもつラウダの貢献も大きい。情熱的なフォルギエリとクールなラウダの個性が衝突し人目をはばからず口論する場面もあったが、マシン開発においては強力なパートナーとなった。ラウダは自著においてフォルギエリのことを「天才だが狂人でもある」と評している。
1976年のドライバーズチャンピオンを決するF1日本ラウンドにおいて、危険な路面状況を理由にラウダがリタイアを選んだ際、フォルギエリは立場を庇い「記者にはマシントラブルでリタイアしたと言え」と助言したという。
1981年にはルノーに次いでターボエンジンを開発したが、増大したエンジンパワーと旧態なシャーシ設計のアンバランスが操縦性能の悪化を招いた。フェラーリはシャーシ設計家としてハーベイ・ポスルスウェイトを招聘し、フォルギエリがエンジン開発に専念する体制で1982年と1983年のコンストラクターズタイトルを獲得した。しかし次第に勝てなくなり、フォルギエリは1985年に市販車技術研究部門へ転属することになった(事実上の左遷)。市販車技術研究部門では4WD及び4WSを採用したコンセプトカーフェラーリ・408を開発した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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