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マキノ・トーキー製作所 : ウィキペディア日本語版
マキノトーキー製作所[まきのとーきーせいさくしょ]

マキノトーキー製作所(マキノトーキーせいさくしょ、1935年11月 設立 - 1937年4月 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である〔マキノ, p.246、p.280、p.338-374.〕。当時27歳の映画監督マキノ正博が、自ら開発した録音機材を投入して設立した初期のトーキー映画のプロダクションであり、1936年9月に組織変更しマキノトーキー株式会社となったが、短命に終わった〔。
== 略歴・概要 ==

=== 前史 技術開発者マキノ ===
マキノの父・牧野省三は早くからトーキーに取り組んでおり、マキノ・プロダクション時代の1929年(昭和4年)にはディスク式トーキー作品『戻橋』(監督マキノ正博)を製作、全国的なヒットを生んだが、興行の現場では映写技師がシンクロに苦労し、苦情が殺到していた〔。
1931年(昭和6年)に松竹が「国産初のトーキー映画」とされる『マダムと女房』(監督五所平之助)を発表、翌1932年(昭和7年)から松竹、日活月形陽候プロダクション片岡千恵蔵プロダクション新興キネマ新映画社音映の各社が数本ずつのオール・トーキー、サイレント映画にトーキー部分を織り込んだパート・トーキー、サイレントに音楽や活弁を収録したサウンド版を製作しはじめた〔。
1933年(昭和8年)、マキノ正博は、亡くなった父・省三の代からの横田永之助との確執から日活を馘首された。これからはトーキーだと確信していたマキノは、退職金の2,000円(当時)の半分を握って上京、日本国粋会太田進一率いる牛込区神楽坂(現在の新宿区神楽坂)の音映で、同社の技術スタッフたちとともに録音・撮影機材の研究・開発に没頭した。新機材を開発したマキノは、音映の京都支社を新設して、録音技師として各社の下請けをし、録音技術の研鑽を積んだ〔。
1935年(昭和10年)、神戸千鳥興業の専務取締役宗田政雄が京都のマキノを訪れ、「月間トーキー2本、サウンド版2本、年間48プログラム」の生産ペースを前提に、配給と製作費の出資をする旨の申し入れをした。ついては12月中旬から第1作を公開したいので、11月からクランクインしてほしいというこの申し入れに、マキノは考え込んだが、笹井末三郎が撮影所用地を調達して励まし、マキノはついに新会社設立の決意をした〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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