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木俣 達彦(きまた たつひこ、1944年7月7日 - )は、愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手(捕手)、野球評論家。 == 来歴・人物 == 岡崎市立広幡小学校、岡崎市立葵中学校卒業〔月報「岡崎の教育」昭和55年12月号 〕。中学から捕手を務め、中京商業高校ではに春夏連続で甲子園に出場。その後慶應義塾大学を受験するが不合格となり中京大学に進学し、1年生で正捕手になり秋季リーグで首位打者とMVPを獲得する。そのため中日ドラゴンズからの誘いがあり、中退して1964年に入団する。小柄ながら強打の捕手として活躍。 1969年にセ・リーグの捕手では史上初の30本塁打となる33本塁打、翌1970年にも30本塁打をマークする。典型的な長距離打者であったがゆえに粗さが目立ち、打率も低い為、それを改善するために、一本足打法でグリップを極端に下げてからトップの位置に持っていくマサカリ打法を編み出し上からボールをぶつけるレベルヒッターへ転向し安打を量産(本人曰く、「マサカリ打法とは、打法改造する前の1971年に中日スポーツの記者からつけてもらった」とのこと)。 優勝した1974年には自己最高の打率.322(リーグ2位)を記録し、以後4度3割をマークし、永く中日の正捕手として活躍する。1980年にはセ・リーグの捕手として史上初の2000試合出場をマークする(プロ野球史上では野村克也に継ぐ史上2人目。ただし木俣は捕手としての出場が引退まで2000試合には満たず)。近藤貞雄監督就任において、木俣の後釜となる捕手の獲得が急務との判断により中尾孝義をドラフト指名。翌年から中尾を正捕手に据え出場機会が減少し、ヒザの故障もあり1982年のリーグ優勝を機に、星野仙一とともに引退。翌年のオープン戦で行われた引退試合では、木俣が対戦した中で最高の投手と評価していた江夏豊(当時日本ハム)に特に依頼して登板してもらった。 捕手としては野村克也、古田敦也、谷繁元信に次いで通算で4位の安打数を記録。自宅にありとあらゆる器具を取り揃え、トレーニングの方法を熱心に研究していたことから野球博士のニックネームがあった。また、キャッチャーマスクに喉を保護するスロートガードをはじめて付けたのも木俣である。引退後は、1983年から1986年まで中部日本放送(CBC)解説者、中日スポーツ評論家を務めた後、1987年から1989年まで中日一軍総合コーチを務め、1988年のリーグ優勝に貢献。1995年に一軍打撃コーチを1年間担当した後、再びCBC解説者、中日スポーツ評論家となり現在に至る。中日OB会の副会長を務めていたが高木守道が2012年から監督に就任する為、木俣がOB会会長代行を務めることになった。2012年11月25日よりOB会の会長代行から正式にOB会の会長に就任し、2015年11月29日まで務めた(その後、鈴木孝政が受け継いでいる)。 捕手の経験を生かし、試合展開を大胆に予測する解説が特徴である。ラジオの中継では試合前に最終スコアを予想する(東海ローカルでありながらドラゴンズの負けを予想することもある)が、まず当たらない。ただし、試合中の分析は的確である。プロ野球マスターズリーグの名古屋80D'sersに参加している。 2005年4月発売の中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡(ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-61324-6)には、「ミスタードラゴンズの資格十分」と書かれている(「ミスタードラゴンズ」と呼ばれるのは西沢道夫、高木守道、立浪和義である〔北京オリンピック野球日本代表監督を務める以前の星野仙一を「ミスタードラゴンズ」と紹介している文献も存在する(オークラ出版「中日ドラゴンズ伝説」〈2008年4月30日出版、ISBN 4775511882 / ISBN 978-4775511886〉p.21)。〕)。 現役時代には星野仙一とともに永田や佛壇店のCMに出演していた(「欲しいの」「決まったー」のフレーズが有名)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木俣達彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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