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マシュー・ホプキンス(Matthew Hopkins、1620年 - 1647年以降)は1644年から1646年にかけてサフォーク、エセックス、ノーフォークなどのイングランド東部を中心に魔女狩りを行った人物である。彼は、イギリス政府から魔女狩りを任されていると吹聴して「魔女狩り将軍」を自称していたが、およそ300人もの無実の人々を魔女に仕立て上げて処刑し、多額の収益を得た。 == 経歴 == サフォークで清教徒の牧師ジェイムズ・ホプキンスの息子として生まれた。当初は弁護士をしていたが、余り有能ではなかったようで、生活に必要な収入が得られず、地元で魔女集会が行なわれたのを機に魔女狩りを生業とするようになった。彼が魔女狩りにおいて合法すれすれの手段をよく用いたのは法律に精通していたからだと言われている。 彼はジョン・スターンとメアリー・フィリップスという男女二人の部下を連れて、イングランド東部各地を巡回して魔女狩りを行なった。後に彼が出版した『魔女の発見』と題する小冊子によれば、当時の魔女発見業務の一般的な手数料以上の料金は請求しなかったと言うが、実際には彼が魔女狩りを行なう時には地元住民から特別徴税を行い、庶民の年収に相当する20ポンド前後の大金を受け取ったとする記録もあり、彼が魔女狩り業務に従事していた3年弱の間に稼いだ金額は数百ポンドとも1000ポンドとも伝えられる。彼が告発して処刑された魔女の人数はおよそ300人とされる。イングランド全体で魔女として死刑になった者は1000人ほどであるから〔ヨーロッパ全体で魔女として処刑された人数は諸説あるが、イングランドでは拷問の使用が禁じられるなどの理由で魔女裁判は低調であり、ドイツやフランス、スコットランドに比べて魔女の処刑数は非常に少なかった。〕、イングランドの魔女の3分の1弱がホプキンスの手にかかった事になる。 彼がこれほどの「成果」を上げ得たのは、住民からの特別徴税からもわかるように地元の行政からの後押しがあったからでもある。 しかし、後述するようにホプキンスが用いた方法は不正が多く、多数の無実の人を魔女としてでっち上げ、処刑して多額の料金を得るというものであった。そのため、彼の主張ややり方を非難する人たちが現れ、ジョン・ゴール牧師がホプキンスを批判するとともに、ホプキンスの尋問の残虐さや違法性をあばく証拠を集め、告発状を出した。これによってホプキンスは信用を失い、1646年末頃には魔女狩り将軍は廃業へと追い込まれた。1647年に書いた『魔女の発見』は、こうした世間の批判に対する釈明の意味もある。 彼の没年やその状況ははっきりしない。彼自身が魔女とされて、後述の「水責め」を受けて殺されたとする説もあるが、実際は病死(結核?)したようである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マシュー・ホプキンス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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