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マッスル坂井(マッスルさかい、本名坂井 良宏(さかい よしひろ)、1977年11月5日 - )は、日本の実業家、プロレスラー。坂井精機専務取締役。有限会社DDTテック(現:株式会社TEC)元代表取締役であり、マッスルを主宰。新潟県新潟市出身。 == 経歴 == 新潟明訓高校時代は剣道部に所属。一方で映画監督や漫画家にも憧れており、「ビッグコミックスピリッツ」で努力賞を受賞。 早稲田大学第二文学部に進学。「シネマ研究会」に所属して自主映画を製作する流れで、プロレスのドキュメンタリーを撮ろうと考え、アニマル浜口のジムの練習生となる。 のち、DDTに参加し、在学中の2002年6月20日、DDT Club ATOM大会でのダーク・マッチで初登場。以来練習生として200試合以上をこなし、正式デビューに至らないまま(当時DDTの新人の登竜門であったスーパー宇宙パワー戦は2004年9月16日に経験しているが、雨のため大会は中止扱い、記録抹消)2003年1月4日にはアイアンマンヘビーメタル級王座に就くもすぐに脚立にタイトルを奪われるという失態を演じ、12月10日には当時の社長・一宮章一に映像班に専念することを言い渡される。 早稲田大学を中退した2004年7月31日後楽園ホール大会でスーパー宇宙パワー相手に正式デビュー戦。それに際し「マッスル坂井」と改名。その年の10月13日にはお笑い系プロレス興行「マッスル」をスタートさせる。 2005年には猪熊裕介、男色ディーノとのユニット「ドラマチック三銃士」で話題を博し、橋本友彦、男色ディーノとは昭和52年生まれ限定のユニット「B-52スペシャル」を結成する(橋本友彦のDDT退団により消滅)。2006年に入り頭をアフロにしたかと思うと大鷲透率いるDISASTER-BOXに心酔してメンバー入り、「魔ッスル坂井」と名乗り解散後にマッスルに戻る。映像班も兼任。「DDTテック(現:TEC)」の社長でもあった。 2007年1月、今までDDTテックの社長ということでノーギャラでリングに上がっていたことに本人が気づいたため、DDTと初の選手契約を交わした。しかし、1試合当たり5000円のギャランティ契約であるらしい。 2007年6月3日、NOSAWA論外を騒音防止デスマッチで破り、DDTエクストリーム選手権第3代王者となる。 2008年4月、親しらずからバイ菌が入り、下アゴの骨が壊死しかけるという蜂窩織炎により緊急手術を行い、約3週間にわたり入院した。 2008年末の両国大会告知以降は映像班に専念し、2009年8月23日の両国大会を裏方として盛り上げる。 2009年9月9日、マッスルの元ネタであるハッスルに練習生として入団。この時点でDDTとは正式なレスラー契約をしていないため、DDT退団ではない〔〕。TAJIRIとのシングルでハッスルデビュー。 2009年11月29日、再びDDTへ戻り正式にレスラー契約を結び、2010年5月23日の大阪大会で復帰した。 2010年8月3日、実家の金型工場、坂井精機株式会社を継ぐためとして引退を発表。同年10月6日、後楽園ホールにて開催されたマッスルハウス10をもって引退。試合中に、先日入籍していたこと、近々子供が生まれる予定であることを発表。20年後の2030年10月6日にマッスルハウス11を開催し、自身の子供を出場させる考えを示した。 その後はレスラーとして表舞台に上がることはなかったが、2012年2月19日のDDT後楽園大会では「マッスルの亡霊」役で1年半ぶりにリングに登場。その後8月12日の武道館ピーターパンのマッスル提供ダークマッチ、マッスルハウス10.5に出場し限定復帰を果たした。この出場に備えて地元を拠点とする新潟プロレスにて練習を行っており、7月28日にはレフェリーとして新潟プロレスに出場している。 2013年現在、金型工場では専務職にあること、新潟大学大学院の技術経営研究科に入学したこと、新潟プロレスにマスクマン(後述)として出場したことを明かしている。また、引退後は顔を隠してDDT後楽園大会に通っていたことを仄めかした。 2014年8月17日、DDT両国大会にて男色ディーノの指名を受けて限定復帰し、ディーノの持つDDTエクストリーム選手権に「インポータントサムシング時限爆破デスマッチ」で挑むが敗北。試合後、DDTの映画進出第1号作品で総監督を務めることも発表された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マッスル坂井」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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