|
マヌエル・サンターナ(Manuel Santana, 1938年5月10日 - )は、スペイン・マドリード出身の男子テニス選手。主に1960年代に活躍し、4大大会の男子シングルスで通算4勝を挙げた。フルネームは ''Manuel Martinez Santana'' (マヌエル・マルティネス・サンターナ)という。「マノーロ」“Manolo”という愛称形で親しまれた。赤土のクレーコートが多いスペインの選手でありながら、サンタナはサーフェス(表面)が異なる芝生コートのウィンブルドン選手権と全米選手権でも優勝を飾り、両大会で史上初のスペイン人優勝者となった。彼は順応性に富むテニス・スタイルと、試合中に笑顔さえ見せるほどの気さくな人柄で高い人気を持っていた。年代的にはオーストラリア・テニス界の全盛期と同時代に位置している。 サンターナは少年時代、地元のテニスクラブで球拾いの仕事を手伝い、そこからテニスを習得していった。1958年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのスペイン代表選手となる。1961年の全仏選手権で、サンターナはイタリアの名選手ニコラ・ピエトランジェリを 4-6, 6-1, 3-6, 6-0, 6-2 のフルセットで破り、4大大会初優勝を飾る。1964年に全仏選手権で3年ぶり2度目の優勝を果たした時も、同じピエトランジェリとの決勝を 6-3, 6-1, 4-6, 7-5 で制した。 サンターナがスペインの国民的英雄になったのは、1965年の全米選手権優勝である。その決勝戦で、サンターナは南アフリカのクリフ・ドリスデールを 6-2, 7-9, 7-5, 6-1 で破り、同選手権で最初のスペイン人優勝者に輝いた。ヨーロッパのテニス選手が全米選手権で優勝したことも、1928年のアンリ・コシェ(フランス)以来の偉業であった。そしてついに、1966年のウィンブルドン選手権でサンターナのテニス経歴のハイライトが訪れる。アメリカのデニス・ラルストンとの顔合わせになった決勝戦で、サンターナはラルストンを 6-4, 11-9, 6-4 のストレートで破り、ウィンブルドンでも史上初のスペイン人優勝者になった。しかし1967年のウィンブルドン選手権では、大会初日の1回戦で前年優勝者がセンター・コートの第1試合に出る「オープニング・マッチ」でチャーリー・パサレル(プエルトリコ)に敗れてしまい、同選手権で史上初の屈辱をなめた。テニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施された後、サンターナの国際舞台での勝利数は急速に少なくなったが、シングルスでは1970年まで優勝記録を残している。 第2次世界大戦後のヨーロッパ人テニス選手として国際的に高い評価を獲得したマヌエル・サンターナは、1973年のデビスカップを最後に現役を引退し、スペイン・チームの代表選手として史上最多記録となる「92勝28敗」の記録を残した。1985年にスペインのテニス選手としてマニュエル・アロンソ(1895年 - 1984年)以来2人目の国際テニス殿堂入りを果たす。2006年7月9日、自らのウィンブルドン選手権優勝からちょうど40年後、男子シングルス決勝戦にスペインのラファエル・ナダルが勝ち上がったことから、サンターナはウィンブルドン選手権の主催者から特別招待を受け、ナダルとロジャー・フェデラーとの決勝を観戦した。2年後の2008年ウィンブルドンにおいて、ナダルが決勝でフェデラーを破って初優勝を果たし、スペイン人男子選手としてサンターナ以来「42年ぶり」2人目のウィンブルドン優勝者になった。 == 4大大会優勝 == * 全仏選手権:2勝(1961年、1964年) * ウィンブルドン選手権:1勝(1966年) [スペイン人男子選手最初の優勝] * 全米選手権:1勝(1965年) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マニュエル・サンタナ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|