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マノーロ・エスコバル (Manolo Escobar) として広く知られているマヌエル・ガルシーア・エスコバル(Manuel García Escobar、1931年10月19日 - 2013年10月24日)は、おもにコプラ・アンダルーサ (copla andaluza) やスペイン歌曲を歌うスペインの歌手。俳優としても活躍し、様々なミュージカル映画に出演した。代表的なヒット曲には、「El Porompompero」、「Mi carro」(1969年)、「La minifalda」や、ベルギーの作曲家レオ・ローゼントラーテン (Leo Rozenstraten) の作である「Y viva España」などがある。 == 経歴 == マノーロ・エスコバルは、父アントニオ・ガルシーア (Antonio García) と母マリア・デル・カルメン・エスコバル (María del Carmen Escobar) の間に、やがて10人となる兄弟姉妹の5番目の子として生まれた。エスコバルは後に、母に「Madrecita María del Carmen」という曲を捧げている。父アントニオは、家業であった農業を捨て、飲食業や文化関係の仕事に打ち込んだ。やがて父は、ある共和派の元教師と出会い、子どもたちを教育することと引き換えに住まいを提供することになったが、その教育の中には音楽も入っていた。マノーロは、こうしてリュートを習い始めた。また、ピアノも幼い頃から弾いていた。 14歳のとき、マノーロは兄弟たちと一緒にバルセロナへ移り住み、いろいろな仕事の見習い修業をするようになった。また、バダローナ(バルセロナ県)やバルセロナの中華街で、兄弟であるサルバドール (Salvador) や バルドメーロ (Baldomero) とともに、マノロ・エスコバルとギター楽団 (Manolo Escobar y sus guitarras) と名乗って演奏活動を始めた。やがて、このバンド活動が軌道に乗ると、もうひとりの兄弟であるフアン・ガブリエル (Juan Gabriel) が加わった。程なくして、ガルシーア・エスコバル兄弟の中から、フアン・ガブリエルとホセ・マリーア (José María) が曲を作るようになり、バンドでも演奏するようになっていった。 私生活では、1959年に、ドイツ人女性アナ・マルクス・シファー (Ana Marx Schiffer)、通称アニータ・マルクス (Anita Marx) と、カスティージョ・デ・アロ(プラッジャ・ダロ) (Castillo de Aro (Platja d'Aro)) の「フィエスタ (''Fiesta'')」というナイトクラブで知り合い、3か月後にドイツのケルンで、お互いに相手の母語を解さないまま結婚した。今日まで50年以上の夫婦生活が続いている。(夫婦の間に実子はないが)養女にバネッサ (Vanessa) がおり、エスコバルは「Mi pequeña flor」という歌を娘に捧げている。 1962年、エスコバルは、教師であったソラーノ (Solano) の作った歌でマドリードとバルセロナでデビューを果たし、スターとなり、また、アルコス・デ・ラ・フロンテーラ(カディス県)で撮影された映画『''Los Guerrilleros''』に出演した。 こうしてエスコバルは自分のジャンルで成功を収め、1965年以降にも(ジャンルとしてのコプラ・アンダルーサが著しく衰退していく中で)数多くのレコードをヒットさせ続け、スペイン歌曲にとって厳しい時代の中で、自分の一座を維持して興行を続けた数少ないアーティストのひとりとなった。しかし、(公にはされていない理由により)メディアが報じるヒット・チャートに登場することは決してなかった。 1990年代はじめ、エスコバルはベニドルム(アリカンテ県)にシャレー(chalet:スイス風の家屋)を構え、持ち歌の曲名にちなんで「Porompompero」と命名した。出演した20作品以上の映画のうち、3作品はスペインの映画史上において観客動員数の上位10作品に入っており、さらに80枚ほどのレコードのうち24枚はゴールド・ディスク、カセットの1作品はプラチナの認定を受けていることが、エスコバルが第一人者であることの証である。ベルター・レーベル (Belter) は、マノーロ・エスコバルのアルバム24枚をゴールド・ディスクとしたが、売り上げ実績からすれば40枚以上が対象となっていたはずである。エスコバルの最大のヒット・アルバムは、オリジナル盤が600万枚を売り上げた『''Y Viva España''』であるが、後の公式再発盤を含めると売り上げは1000万枚に達する。このアルバムは1973年から1992年の期間において、スペインの音楽市場最大の売り上げを達成したアルバムであった。 2010年、エスコバルは、大腸癌であることを公表し、癌の進行を抑えるために化学療法に取り組んだ。こうした体調にもかかわらず、自身のキャリアを通した選曲で構成されたショー「De Manolo a Escobar(マノロからエスコバルへ)」、講演先の地元のバンドと一緒に歌う「Manolo Escobar y la Banda de tu Pueblo(マノーロ・エスコバルとあなたの地元のバンド)」、いつも一緒に演奏している自分の音楽上の仲間と歌う「Galas(ガラ)」と、3種類の興行を続けた〔Manolo Escobar: "Pongo interés a la quimio para seguir cantando" El Periódico de Catalunya, 19.12.2010〕。 2011年9月18日朝、エスコバル自身も、家族も、まだ寝入っている間に、ベニドルムの自宅に物取りが入った。盗まれたものの中には、ゴールド・ディスク数枚、功労勲章のメダル (la Medalla de la Orden al Mérito en el Trabajo)、FCバルセロナの金色に輝くロゴ〔Los ladrones entran en casa de Manolo Escobar y se llevan sus medallas El Periódico de Catalunya, 20.09.2011〕などがあった。FCバルセロナの会長サンドロ・ロセイは直ちに、新たに作ったクラブの金色に輝くロゴをエスコバルに贈呈する、と発表した。 2013年10月24日、ベニドルムの自宅にて死去。82歳没。大腸癌で闘病生活を送っていた〔スペインの歌手、マノロ・エスコバル氏死去 時事ドットコム 2013年10月25日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マノロ・エスコバル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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