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マリーア・カロリーナ・ダスブルゴ(, 1752年8月13日 - 1814年9月8日)は、「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の十女で、ナポリとシチリアの王フェルディナンド4世および3世〔ナポリ王としてはフェルディナンド4世で、シチリア王としては3世。両シチリア王としてはフェルディナンド1世となるが、それは王妃の死後である。〕の王妃。マリーア・カロリーナ・ダウストリア()とも。ドイツ語名はマリア・カロリーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン()。 == 生涯 == 当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。 婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリア・アントーニアではなく。 フランス革命が起こると、初めは革命側の市民たちに同情を寄せていた。1793年のルイ16世の処刑と、その後のマリー・アントワネットの処刑によって態度を硬化させるが、それまではナポリ国内におけるフリーメイソン活動にも力を貸していたほどで、ナポリには女性が加入できる団体もあったという。ともかく、妹夫婦の処刑という事態にマリア・カロリーナとフェルディナンドは震え上がり、彼女は夫を動かしてナポリ・シチリア合同軍を組織させ、フランス革命軍との戦いに転じた。 しかしフェルディナンド自身が「どんな立派な軍服を着せても、彼らが逃走するのを防げる手立てはない〔''Napoleon's Campaigns in Italy'' (Men-at-Arms serise 257) by Philip Haythornthwaite and Richard Hook〕」と嘆息するヨーロッパ最弱のナポリ軍は、出征先で負け続け、大恥を晒した。1796年にナポレオンの指揮するフランス軍が北イタリアをほぼ手中に収めると、マリア・カロリーナは侵攻を恐れて、800万フランという巨額の賠償金を払って講和し、戦線から脱落せざるをえなかった。これで皮肉にも(国内での中途半端な改革と戦争での致命的な失敗という)母マリア・テレジアがかつて国政で置かれた状況にも酷似することになった。 ヴェズーヴィオ山の噴火も重なり、精神的にも肉体的にも弱ったマリア・カロリーナは、アヘンを常用するようになっていた。1797年になると、彼女の健康状態はかなり悪化していたが、故国オーストリアとの同盟関係を再確認させるなど、依然として外交をリードし、1798年に教皇領のローマでの反乱が起きるとこれに介入を命じる。しかし、鎮圧に失敗したのみならず、年末にはわずかな数のフランス軍の逆襲を受け、ナポリ市までもが占領される事態に発展する。1799年1月にナポリで革命が起こり、共和制が成立して、パルテノペア共和国が宣言された。6月に国王派が巻き返し、フェルディナンドは実権を辛うじて回復したが、その権威は揺らいだ。イギリス艦隊が入る前に国王はホレーショ・ネルソン提督と同盟を成立させており、条件付き降伏を飲んだ共和派の一部は無事にフランスへ亡命した。しかし、国内にとどまる共和派に対して国王夫妻は情け容赦なく弾圧し、数千人の共和派が捕らえられて処刑された。 1806年、絶頂期にあったナポレオン1世により、フェルディナンドはナポリ王位を退位させられた。王位はシチリア王のみとなったが、シチリア島に移ってからもマリア・カロリーナは1812年まで実権と影響力を維持した。彼女は、夫が摂政に任命したフランチェスコ王子(のちの両シチリア王)に抵抗するが、結局はシチリア島からの退去を息子から命じられ、オーストリアへの亡命を余儀なくされる。こうして晩年は家族から疎まれる存在となり、ウイーンにて病死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリア・カロリーナ・ダズブルゴ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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