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マリア・テレジア・ヨーゼファ・シャルロッテ・ヨハンナ・フォン・エスターライヒ(, 1767年1月14日 - 1827年11月7日)は、ザクセン王アントンの妃。 == 人物 == トスカーナ大公レオポルド1世(のち神聖ローマ皇帝レオポルト2世)とその妃マリア・ルドヴィカの長女として、フィレンツェで生まれた。マリア・テレジアに始まるハプスブルク=ロートリンゲン家の男系の孫のうち第1女は「マリア・テレジア」と命名する慣行があり、先行する例に従い「マリア・テレジア・ヨーゼファ・シャルロッテ・ヨハンナ」と命名された。 1787年9月8日、マリア・テレジアはザクセン王子アントンと代理人を通じて結婚した。その後、同年10月18日にドレスデンで本人同士がそろっての結婚の宣誓が行われた。アントンは最初の妻であるサルデーニャ王女のマリア・カロリーネと1782年に死別していた。 モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』はもともと、1787年10月14日の2人のプラハ訪問(ドレスデンからウィーンへ旅行する途中の滞在)の記念のために上演された。夫妻に献呈するためのリブレットの印刷もされていたが、マリア・テレジアの叔父ヨーゼフ2世の急な命令で『フィガロの結婚』に差し替えられた。『フィガロの結婚』は花嫁のためにふさわしくないと観客からみなされ、夫妻は上演が全幕終わるまで観ることなく早々に劇場を後にした。モーツァルトはこの事件を取り巻く奸計にひどく憤慨し、その旨を友人のゴットフリート・フォン・ヤッキーンに宛てた1787年に10月15日から25日の間の手紙に書き連ねている。 マリア・テレジアの生涯には悲劇が相次いだ。まず彼女の4人の子がみな夭折した。次に彼女はザクセン王妃の身分に、義兄フリードリヒ・アウグスト1世が1827年5月に没してからわずか半年間しか即けなかった。最後に、ナポレオン戦争の結果として、ザクセンは領土を大幅に失ったのである。 マリア・テレジアは1827年11月7日にライプツィヒで没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリア・テレジア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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