|
マリオン・デイヴィス (Marion Davies、1897年1月3日 - 1961年9月22日)は、アメリカ合衆国で1920年代から1930年代にかけて活躍した映画女優。ニューヨーク州ブルックリン出身。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの愛人として知られる。 == 生涯 == 本名はマリオン・セシリア・ドゥラス(Marion Cecelia Douras)。父親は裕福な家の出で、弁護士・裁判官であった。修道院で教育を受け、小さいころからマリオンは、女優になりたいという望みをもっていた。1916年、三人の姉に続いてジーグフェルド・フォリーズのショーガールに加わった。ブロードウェイの舞台に立っている頃、新聞王ランドルフ・ハーストと出会い、その人生は大きく変わる。ハーストはマリオンをたいそう気に入り、彼女を愛人としてカリフォルニア州サン・シメオンにある豪邸「ハースト・キャッスル」に迎え入れる。メディア界最高のオーソリティーであったハーストは、金に物を言わせ、マリオンを世界一のスター女優にしようと、彼女のためだけのプロダクション会社「コスモポリタン」を設立。パラマウント、MGM、ワーナー・ブラザーズなど、ハリウッド大手のメジャースタジオと提携し、有名監督を起用して、46本の主演映画を作らせたが〔〕、マリオンの演技力は乏しく、ハーストの20年に及ぶ投資(700万ドルともいわれる)の甲斐もなく、出るものすべてが不評に終わる。しかし豪華なコスチュームを身にまとう彼女の映画が大好きだったハーストも、『お人よし』や『活動役者』(ともに1928年作、キング・ヴィダー監督)で見せたコメディエンヌとしての才能を見抜くことはできなかった。 マリオンはハーストとの関係を初めは楽しんでいたが、寝室は別で、彼女は彼のことを「パパ」と呼んだ。マリオンの伝記作家のフレッド・ガイルズによれば、マリオンはたびたび相手役の俳優に夢中になったが、ハーストは自分では、彼女を充分に満足させられないことを承知しており、浮気は公認だった。喜劇王チャーリー・チャップリンとの仲も取り沙汰されたが、1924年、ハーストが主催する船上パーティで映画プロデューサーのトーマス・H・インスが謎の死を遂げる事件が起きた(このときの様子は映画『ブロンドと柩の謎』に詳しい)。 マリオンは吃音だったので、トーキー映画の出現で、映画にはもう出られないだろうと心配していたが、実際にはさほど障害にはならなかった。 「私の吃音を直すには、口に小石を入れるといいって誰かが言ってたわね。ええ、やってみたわ。でも、撮影の間に、それを飲みこんじゃったの。それでおしまい」 クラーク・ゲーブルやビング・クロスビーと共演し、華やかなダンスや歌声を披露したが、1937年ハーストの事業の崩壊とともに映画界から退いた。 1951年、ハーストが死んだその同じ年、マリオンは別の男性と結婚した〔。晩年は慈善事業にかかわっており、UCLAで子供の診療所を設立するために190万ドルを寄贈した。UCLAのメディカルセンターにはMarion Davies Clinicという名前が付いている。 1961年、マリオンはガンのためにロサンゼルスの病院で亡くなった。 映画『市民ケーン』に出てくるスーザン・アレキサンダーは彼女がモデルとされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリオン・デイヴィス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|