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マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス(Marie Thérèse Charlotte de France, 1778年12月19日 - 1851年10月19日)は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの長女。ルイ16世の弟シャルル10世の長男であるルイ・アントワーヌ王太子の妃となった。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うした。 == 生涯 == === 革命以前 === マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの長子、第一王女としてヴェルサイユ宮殿で生まれた。夫妻の結婚から7年目にしてようやく生まれた子供であった。名前は祖母である「女帝」マリア・テレジアの名のフランス語形である。幼少期はブルボン家とハプスブルク家の血を引くことに誇りを持ち、プライドが高く、少しこましゃっくれた性格であった。9歳の頃、ヴェルモン神父から母が落馬したが無事だったという話を聞かされたマリー・テレーズは「もし母が死んだら何をしても自由だったのに」と答え、神父を唖然とさせた。養育係が誤って彼女の足を踏みつけたが、その日の晩に傷ついた足に乾いた血がついているのに気づいた養育係は「なぜ足を踏まれた際に何も言わなかったのか」と聞くと、「あなたが私に怪我をさせて私が痛がっているとき、あなたが原因だと知ったらあなたの方が傷ついたでしょう」と答えたというエピソードがある。 マリー・テレーズはまだ幼い頃から、自分の体重と同じぐらいの重さのパニエを身に着け、公式行事や社交の場に顔を出していたため、幼い頃から母への悪口を耳にしていた。1789年5月5日の三部会では、両親に恥をかかせたオルレアン公爵(後のフィリップ・エガリテ)や民衆を憎んだ。それでもフランス革命以前は、人々からマダム・ロワイヤル(Madame Royale)の称号(第一王女に授けられる)で呼ばれ、愛された。 10歳の頃、1778年7月31日にヴェルサイユ宮の小間使いが出産したマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケが、マリー・テレーズの遊び友達として迎えられた。この少女はマリー・テレーズと瓜二つだった。1788年4月30日にマリー・フィリピーヌの母フィリピーヌが亡くなると、マリー・アントワネットはエルネスティーヌと改名させ、養女にした。ルイ16世はエルエスティーヌのために部屋を用意させ、高価なピアノやドレスを買い与えた〔エルネスティーヌの法的文書には母・フィリピーヌ・ド・ランブリケの名前は記載されていたが、フィリピーヌの夫・ジャックの名前は記載されておらず、当時ルイ16世の嫡外子ではないかと言われた。(ネーゲルp28,30,59,60)〕。マリー・テレーズは弟のルイ・シャルルとともに、養育係のトゥルゼル夫人の娘、ポーリーヌ・ド・トゥルゼルによくなついた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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