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社会主義労働者党(しゃかいしゅぎろうどうしゃとう)は、ブント系の日本の新左翼党派の一つ。革命的議会主義の立場から、1980年と1990年の衆議院議員選挙と、1986年と1989年の参議院議員選挙に候補を立てているが、議席獲得には至っていない。機関紙『海つばめ』(旧名『変革』)、機関誌『プロメテウス』(旧名『科学的共産主義』)。委員長は、林紘義。略称は「社労党」。 == 結成の過程 == 共産主義者同盟が60年安保闘争に敗北した後、東京や長野を中心として「共産主義の旗派」が、研究団体として全国社会科学研究会(全国社研)を結成する。機関紙『火花』。 1972年にマルクス主義労働者同盟(マル労同)に改組し、労働者の組織化に取り組む傍ら、1984年には社会主義労働者党を発足させ、日本社会党や日本共産党、他の新左翼に代わる前衛党の建設に着手する。選挙にも何度か出馬したが、地方議員を含め、1度も議席を取ることは出来なかった。選挙では日本共産党と共に日本労働党などへも「毛沢東盲従集団には何としても負けられない」と対抗意識を燃やしていたが、新左翼系候補としては下位に甘んじる事が多かった。 原発問題では、小市民的な「反原発運動」とは一線を画し、その「安全」を脅かしているのは資本の支配にこそあるとし、農産物自由化問題では、小農生産を擁護する「保護主義」を厳しく批判するなど、政策面でも労働者党派としての独自性を貫いた。成田空港建設反対闘争についても、農民や新左翼諸党派を「小ブルジョア」と非難し、敵視した。1993年からの米不足の際には、「東南アジアの貧困国から大量に買い付けることは、アジアの貧困脱却につながる」と、大量輸入を主張。また、政府の「輸入米ブレンド」を非難し、輸入米を安い価格で売ることを要求した。この事から、「原発や土建・ハコ物行政、貿易自由化などの推進を訴える左派」として注目された。 2002年11月3日、同党は「党の実態を欠き、党としての闘いを構築できない状態」であるとして、党を解散。新たにマルクス主義同志会を結成した。 インターネット進出は左翼党派の中では極めて早く、共産党より早くホームページを開設。まぐまぐでメールマガジンも出していた。分派の「ワーカーズ・ネットワーク」のインターネット進出も早かった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「社会主義労働者党 (日本)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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