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マンス : ウィキペディア日本語版
アウグスト・マンス

サー・アウグスト・フリードリヒ・マンス(Sir August Friedrich Manns 1825年3月12日 - 1907年3月1日)は、ドイツに生まれイングランドで活躍した指揮者。移住先の英語式にはオーガスト・マンズと発音される。
マンスはドイツで軍楽隊の指揮者として活動した後イングランドに移り、まもなくロンドン水晶宮の指揮台に上がった。彼はここの楽団を増員してフルオーケストラとし、40年以上にわたって安価な演奏会を催し続けた。彼は英国作曲家やそれまでイングランドでは無視されていたドイツの作曲家など、幅広い音楽をロンドンに紹介した。彼が庇護した英国の作曲家にはアーサー・サリヴァンチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードヒューバート・パリーヘイミッシュ・マッカンエドワード・エルガーエドワード・ジャーマンらがいる。
マンスは300人以上の作曲家の作品を演奏、水晶宮での在職期間である1855年から1901年にかけて12,000以上の演奏会を開催したものと試算される。1894年に英国国籍を取得した彼は1903年ナイトに叙された。
== 生涯 ==

=== 初期キャリア ===
マンスはプロイセンの(Stolzenberg、現在はポーランドグダニスクの一部)に生まれた〔Archives in London RCM section, January 2007〕。彼の父はガラス吹き工で、マンスの回想では「週に1ポンドの稼ぎで10人の子」がいたといい、マンスはその5番目だった〔。マンス家は音楽一家で、若きアウグストは家庭での私的な合奏を通じてフルートに長じていった〔"Mr. August Manns" . ''The Musical Times,'' March 1898, pp. 153–59, accessed 26 July 2010. 〕。マンスは10歳で兄の1人の跡を継いで一時的に工房へ入るものの、ガラス吹きの仕事を気に入ることはなかった。彼の父はアウグストに学校教員となるべく訓練を受けさせるのがよいかとも少し思案したが、息子の音楽にかける思いが勝っていた。マンスは12歳の時、近隣の村でおじが経営する学校へと送られた。ここではフルートと共にクラリネットヴァイオリンの演奏を学んだ。15歳になるとエルビングの音楽家であるウルバン(Urban)の下で3年間の訓練生活を開始し、ここで必要に応じて楽器を変更、切り替えるなどして限られたオーケストラの能力を最大限に引き出す術を学んだ。彼は訓練の3年目にウルバン率いる町の音楽隊の弦楽合奏で第1ヴァイオリンを演奏し、吹奏楽団では主席クラリネット奏者を務めた。そして、彼はウルバンから特別に和声学作曲の指導を受けられることになった〔。
マンスは兵役を受ける歳に近づいてくると、従軍から逃れるためにダンツィヒに配置されていた歩兵音楽隊にボランティアとして加わり、クラリネットを演奏した。同時期には歌劇場や演奏会、バレエ公演においてヴァイオリン演奏も行った。才能を認められた彼は、1848年ベルリンヨーゼフ・グングルが組織するオーケストラに入団し、第1ヴァイオリンを任された。その後、彼は1849年以降ベルリンのの指揮者並びにヴァイオリン独奏者に任用されたが、歌劇場は1851年に焼失してしまった。数週間後にアルブレヒト・フォン・ローン大佐の招きを受け、大佐の連隊の軍楽隊指揮者となった。ここでマンスは腕の悪い多くの隊員を除隊させ、ベートーヴェンの序曲や交響曲の吹奏楽編曲を含むクラシック音楽作品の新たな編曲を作り上げ、さらに弦楽隊を新設した〔。1854年に隊員を研磨の足りないボタンを着用したままパレードに出演させたことを下級仕官に叱責され、マンスは職を辞すことになった〔Young, p. 32〕。
同じ年、当時ロンドン郊外の水晶宮において新たに軍楽隊を結成したばかりだったヘンリー・シャレーン(Henry Schallehn)が、マンスとクラリネット奏者、副指揮者としての契約を結んだ。数ヶ月のうちにシャレーンがマンス作曲の楽曲を自作と偽ったことをきっかけに2人の間には軋轢が生じ、シャレーンは抗議したマンスを解雇してしまった。そのためマンスはイングランドの田舎町でヴァイオリンを教え、エディンバラの歌劇場管弦楽団で演奏するなどしてて生計を立てた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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