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マンスール : ウィキペディア日本語版
マンスール

アブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=マンスール(、 Abū Jaʻfar ʻAbd Allāh ibn Muḥammad al-Manṣūr、712年〔ラガッツ「マンスール」『世界伝記大事典 世界編』10巻、516-517頁〕/13年?〔高野『マンスール』、1頁〕〔太田「マンスール」『岩波イスラーム辞典』、940-941頁〕〔森本「マンスール」『新イスラム事典』、468頁〕/14年〔 - 775年10月7日)は、アッバース朝の第2代カリフ(在位:754年 - 775年)。即位後に用いた称号(ラカブ)の「アル=マンスール」は「勝利者〔〔小杉泰『イスラーム帝国のジハード』(興亡の世界史, 講談社, 2006年11月)、205-207頁〕」「神の助けを受ける者〔〔」を意味する。漢語史料での表記は「阿蒲恭払」。
アブー・ジャアファルは預言者ムハンマドの叔父アッバースの4代目の子孫にあたる。747年からのアッバース革命で戦果を挙げ、754年に異母弟サッファーフの跡を継いでカリフの地位に就き、「アル=マンスール」を称した。即位したマンスールはウマイヤ朝の官僚制度と地方行政機関を踏襲・整備し〔、新都バグダードを中心に国家体制を構築していく〔。マンスールの治世にアッバース朝の支配体制が確立され、そのために彼は王朝の実質的な創始者と見なされている〔〔〔。10世紀末までのアッバース朝の黄金時代の基盤はマンスールの時代に完成したとされ〔佐藤「マンスール」『アジア歴史事典』8巻、393-394頁〕、最大の功績にはアッバース朝の首都バグダードの建設が挙げられる〔。西アジア世界においては、孫のハールーン・アッ=ラシードとともによく知られているアッバース朝のカリフである〔高野『マンスール』、2頁〕。
マンスール以降に即位したアッバース朝のカリフは、全て彼の直系子孫である〔ヒッティ『アラブの歴史』、552頁〕〔前嶋『イスラム世界』、187頁〕。
== 生涯 ==

=== 若年期 ===
アブー・ジャアファルは、アッバース家の家長ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラーフとベルベル人の奴隷サッラーマの子として生まれた。ウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世の時代にアブー・ジャアファルの祖父アリー・ブン・アブドゥッラーは一族を連れてヨルダン南部のフマイマ村に移住し、一族がフマイマ村に落ち着いた直後にアブー・ジャアファルが誕生する〔高野『マンスール』、4-5頁〕。
父のムハンマド、兄のイブラーヒームアリー家アブー・ハーシムの遺言に従ってウマイヤ家の打倒を目指し、有力者の支持を取り付けるため各地にダーイー(宣教員)を派遣した〔高野『マンスール』、12-14頁〕。アブー・ジャアファルの前半生には不明な点が多いが、744年に第4代正統カリフアリーの兄ジャアファルの子孫アブドゥッラー・ブン・ムアーウィヤが起こした反乱に参加したと伝えられている〔高野『マンスール』、22頁〕。748年〔高野『マンスール』、77頁年表〕にウマイヤ朝によってイブラーヒームが投獄された後、危機を察したアブー・ジャアファルは弟のアブー・アル=アッバースら親族とともにイラクのクーファに避難する〔アッティクタカー『アルファフリー』1、283-285頁〕。クーファのシーア派の中心人物であるアブー・サラマはアッバース家の人間を密かに保護し、アブー・ジャアファルたちの元にはシーア派の人間が集まり、一大勢力を形成した〔アッティクタカー『アルファフリー』1、285頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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