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マント事件[まんとじけん] マント事件(マントじけん)は、1912年に第一高等学校(一高)に在学していた菊池寛が、友人の身代わりとなって同校を退学となった事件。 == 事件の発端 == 1912年4月、菊池寛の親しい友人で同級生の佐野文夫は、日本女子大学校に通う倉田艶子(倉田百三の妹)とのデートに、一高のシンボルであるマントを着ていきたいと思ったが、自分のマントは質入れしていたため、他人のものを黙って着て行き、返さずにいた。数日後、佐野と菊池は鍋を食おうということになったが、金がないのでマントを質入れすることにした。しかしそのマントはすでに盗難届が出されていたため、その夜、菊池は呼び出された。しかし菊池は親友を守るため、その場は自分が盗んだことにして退出した〔評伝 長崎太郎」関口安義 都留文科大学 〕。 菊池はそのまま自分が罪をかぶることを決意する。菊池は佐野や他の同級生より4歳も年上で親分気質があったことに加え、佐野には同性愛的慕情をいだいていたので、天才佐野の将来を考えて、自らが犠牲になる道を選んだと言う。菊池はのちに、この事件をモデルにした作品『青木の出京』の中で、「自分が崇拝する親友を救うことこそ英雄的であると信じ、それに陶酔し、感激していた」とそのときの心情を主人公に語らせている〔 青空文庫〕。『小説菊池寛』の著者、杉森久英は、菊池には井原西鶴の『男色大鏡』の精神があり、兄弟の契りはこういうときにこそ発揮されるべき、という考えがあったのだろうと述べている〔 p341〕。 しかし当時の一高寮生たちによると、こんな菊池の話は荒唐無稽だという。旧制第一高等学校の気風は物にこだわらないバンカラ気質があって、他人の物と自分の物の区別がつかないような寮生活で、そのなか一高は独特な自治の精神があり、学生間のトラブルは学生同士で解決することになっていたので、このことに教員が関与すること自体、理解ができないというのが当時を知る大方の見解である。この事件は戦後、一時盛んになった旧制高校の「寮歌祭り」でも話題になったことがあるが、参加者たちは首をひねる事しきりだという事だった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マント事件」の詳細全文を読む
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