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マンモス鈴木 : ウィキペディア日本語版
マンモス鈴木[まんもす すずき]

マンモス鈴木(マンモス すずき、1941年2月10日 - 1991年5月24日)は、日本のプロレスラー
== 来歴 ==
力道山の弟子。日本プロレス東京プロレス国際プロレスに所属。若手時代、ジャイアント馬場アントニオ猪木大木金太郎とともに若手四天王と呼ばれた〔アントニオ猪木自伝 p.75(新潮文庫、新潮社、2000)〕。1961年7月にジャイアント馬場とともに武者修行のため渡米。その後、ジャイアント馬場よりも早く帰国。帰国後に広島県福山市で凱旋試合が組まれたが、この際に相手のアントニオ猪木と引き分けた。凱旋試合を台無しにした猪木は力道山の怒りを買った〔アントニオ猪木自伝 p.80-81(新潮文庫、新潮社、2000)〕。巨体を生かしたファイトに将来性があふれ、期待が高かったが伸び悩んだ。のちに国際プロレスで選手を務めた後レフェリーになった。
レフェリーに転向後は国際プロレス最後の試合で、なおかつ最後の金網デスマッチでもあった鶴見五郎VSテリー・ギッブスをレフェリングしている〔忘れじの国際プロレス P。64(ベースボール・マガジン社、2014)〕。
1991年5月24日塩釜市の病院で内臓疾患により死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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